関東温泉紀行/関東御朱印紀行

関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは関東甲信越、東海、南東北。

■ 鎌倉市の御朱印-29 (E.亀ヶ坂・化粧坂口-1)

93.天衛山 多聞院_

94.粟船山 常楽寺_

95.神奈川縣護國神社_

96.西台山 光照寺_

 

■ 鎌倉市の御朱印-28 (D.大佛口-4)から

■ 鎌倉市の御朱印-30 (E.亀ヶ坂・化粧坂口-2)

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サブタイトルを「E.亀ヶ坂・化粧坂口」に改めます。

 

93.天衛山 福壽寺 多聞院
(たもんいん)

神奈川県神社庁公式Web(熊野神社) 

 

鎌倉市大船2035
真言宗大覚寺派
御本尊:毘沙門天
司元別当:熊野神社(大船村)
札所:鎌倉郡三十三観音霊場第14番、関東九十一薬師霊場第21番、関東百八地蔵尊霊場第90番

 

多聞院は大船にある真言宗大覚寺派寺院で、多彩な歴史に彩られる古刹です。

文明年間(1469-1487年)に、山ノ内瓜ヶ谷に草創の観蓮寺が前身といいます。

 

開山は南介僧都、開基は甘糟長俊とされますが、これは『新編相模國風土記稿』に「舊家小三郎 里正なり、甘糟を氏とす。(中略) 唯家に舊き木牌を置けり、一は土佐守清忠(面に、道本禅門、背に、甘糟土佐守平朝臣清忠、文明九丁酉(1477年)天二月十一日と刻す)」とあり、甘糟土佐守平朝臣清忠という人物と時代が合致します。

 

天正七年(1579年)、山ノ内瓜ヶ谷の観蓮寺が現寺地に遷り、多聞院と号を改めたといいます。

 

観蓮寺を記す史料はWeb上ではほとんど見当たりませんが、永享の乱(永享十年(1438年))で衰えた際に甘糟長俊が大船の地に遷し、多聞院として創建したともいいます。

しかし、複数の史料が文明年間(1469-1487年)に山ノ内瓜ヶ谷に草創の観蓮寺を、天正七年(1579年)に現寺地(大船)に移して多聞院と号したとしているので、「永享十年(1438年)直後に大船に移した」というのは年代的に符合しません。

 

多聞院は大船村鎮守・熊野神社の別当でした。
神奈川県神社庁公式Web(熊野神社)は、「創立の時詳ならざれども」としつつ「古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正7年(1579年)7月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る。現在の御神体である。」と記しているので、甘槽長俊は多聞院創建の同年に熊野神社にも再興的な働きをしているようです。

 

また、大船の名刹・常楽寺の木造文殊菩薩坐像は、永禄十年(1567年)に甘粕長俊によって修理が施されており、甘糟一族が神社仏閣の保護に熱心であったことがわかります。

(なお、甘糟一族は江戸後期には大船村名主となり、当地有数の資産家であったと伝わります。)

 

『新編相模國風土記稿』は多聞院・最蔵坊塚の項で、「鈴木家伝を按ずるに、祖鈴木左近重安、治承中(1177-1181年)鶴岡の職掌となり、戦国の間、永享中(1429-1441年)当村に移住し、鶴岡社役を兼帯し、最蔵坊と唱へ、村内熊野社神職を勤めしとなり、故に今も熊野社の神職を兼ぬ」とし、最蔵坊塚は鶴岡の職掌鈴木主馬の祖先の墓と伝えています。

 

これらをまとめると以下のような推測となります。

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大船の熊野神社の創建は不明だが、鶴岡社役の鈴木氏が永享中(1429-1441年)大船村に移住し、鶴岡社役と熊野神社の社役を兼帯した。

一方、大船の土豪・甘糟清忠は文明年間(1469-1487年)に、(山ノ内)瓜ヶ谷に観蓮寺を開基した。

天正七年(1579年)、甘槽長俊は瓜ヶ谷の観蓮寺を現寺地(大船)に移して、多聞院と号した。

同年、甘槽長俊は多聞院が別当をつとめる熊野神社に御座像を奉安して再興した。

甘槽氏は多聞院の大檀那、鈴木氏は熊野神社の神職として後世に至る。

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ここで問題となるのは、観蓮寺があった旧地です。

 

山ノ内には「瓜ヶ谷やぐら群」があります。
一方、『鎌倉攬勝考』には「瓜ヶ谷」として、「比企ヶ谷(/)  大町より東の方の山際なり。比企の判官能員の舊跡幷御所の跡もあり。委細は妙本寺幷比企の舊跡の條を合せ見るへし。(中略)比企の禅尼(治承四年(1180年)【東鏡】に事跡記載あり)は能員の姨母にて、此前栽に瓜園を設け興ありとて(中略)此邊を瓜ヶ谷と地名せしか、中古以来其唱へはなけれとも、文明(1469-1487年)の頃迄は称したるゆへ(以降略)」とあり、Web上ではこの「瓜ヶ谷=比企ヶ谷」を観蓮寺の旧在所とする記事も見られます。

 

『鎌倉攬勝考』によると比企ヶ谷が「瓜が谷」と呼ばれたのは1180年頃から文明(1469-1487年)年間で、『鎌倉攬勝考』編纂の文政十二年(1829年)にはすでに「瓜が谷」とは呼ばれていなかったようです。

当山草創の文明年間(1469-1487年)と時代は合いますが、比企ヶ谷は妙本寺周辺、「瓜ヶ谷やぐら群」は葛原岡神社北側の谷で、あきらかに場所は異なります。

 

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甘糟氏は清和源氏新田氏流ともいわれ、新潟県長岡市の桝形城に拠って上杉氏の家臣であったとされます。(出自は諸説あり)

 

甘糟近江守景持(長重)(1529-1604年)は、上杉四天王(柿崎景家、甘粕景持(長重)、直江景綱、宇佐美定満)に数えられたほどの重鎮で、永禄四年(1561年)以降、長尾景虎・上杉憲政軍に従いたびたび関東の後北条氏を攻めています。

 

鎌倉府の初代関東管領は上杉憲顕(1306-1368年)で、晩年越後國の守護をつとめ、上杉氏は以降越後國に根を張るとともに、越後の上杉氏やその重臣は、鎌倉の関東管領上杉家と主従関係を含む交流があったとみられます。

 

その過程で越後の甘糟氏一族が関東に土着した可能性があり、じっさい→こちらのWeb資料には「甘糟家が大船に館を構えたのは、室町時代で当時上杉管領に仕えていた甘糟土佐守平朝臣清忠という人」という記載があります。

 

また『新編相模國風土記稿』には、「舊家小三郎 里正なり、甘糟を氏とす。先祖は上杉氏に仕へ後北條氏に屬せしと云へど口碑のみにして家系舊記等を伝へず、唯家に舊き木牌を置けり、一は土佐守清忠(面に、道本禅門、背に、甘糟土佐守平朝臣清忠、文明九丁酉(1477年)天二月十一日と刻す) 一は備後守清長(面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣淸長、永正二乙巳(1505年)天七月八日と刻す。一は佐渡守長俊(面に、隨岫寶順禅定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午(1582年)天三月十三日と刻す)等なり」とあり、甘糟氏が上杉氏から後北条氏に仕え大船に拠ったことを示しています。

 

■ 『新編相模國風土記稿』の「舊家小三郎」の項には「玉繩岡本村に首塚或は甘糟塚と唱ふるあり、此家の伝へに大永六年(1526年)十二月北條氏綱が兵と里見義弘戸部川の邊に戦ひ、北條勢三十五人討死す。かりて其首級を合せ埋し、榎を植て標とす、此家の祖先某其一にして且其魁たり、故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を伝へざれど年代をもて推考するに備後守清長が男なるべし、又天正十三年(1585年)閏八月圓覺寺廓架再興助力人の列に甘糟外記の名あり」とあります。

 

各種史料や鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)などから、この「戸部川の戦い」を追ってみます。


「戸部川の戦い」とは、大永六年(1526年)、安房國の里見実尭(ないし義豊)と玉繩城主・北条氏時とで交わされた戦いです。

 

里見氏は「戸部川の戦い」を通じて玉繩城とも関係がふかいので、例によって脱線して(笑)里見氏についてまとめてみます。

 

里見氏は源(新田)義重の子・義俊を祖とする名族で、ふるくから安房國に拠って地盤を固め、房総屈指の戦国大名に成長しました。

 

惣領家の新田氏の当主・義貞は官軍方の忠臣として活躍しましたが越前國藤島で落命し、以降、北朝の天下のもとで家勢は振るいませんでした。
しかし、里見氏は新田氏流でありながら勢力はつよく、新田氏の庶宗家となり「大新田」氏とも呼ばれたといいます。

 

中世の里見氏をみるとき、「小弓公方」を外すことはできません。(と、さらに脱線する(笑))

 

足利尊氏の子の足利基氏以来、関東を支配してきた鎌倉府・鎌倉公方家は、次第に京の足利将軍家との対立を強めていきます。

 

でもって、鎌倉公方家をみるとき、「関東管領」を外すことはできません。(と、たたみかけるように脱線する(笑))

 

室町幕府が関東統治のために置いた鎌倉府の長官が鎌倉公方で、代々足利基氏系が世襲しました。
幕府はまた、鎌倉公方の補佐役として関東管領職を置き、足利尊氏の生母・上杉清子の実家で関東に勢力をもつ上杉氏が世襲しました。

 

足利氏嫡流は将軍として京におり、関東各地に拠る足利系諸氏も一枚岩ではなく、鎌倉公方の軍事的基盤は必ずしも強いものではありませんでした。
これを充足するために関東管領職を置き、関東に軍事力をもつ上杉氏を据えたともいえるのですが、この関東管領と鎌倉公方の関係が微妙でした。

 

いつの世も権力の基盤は人事権です。
関東管領は、表向きは鎌倉公方が人事権をもち、幕府はそれを承認する形をとっていたものの、実質的な補任権は幕府(将軍)が握っていたとみられています。
この関東管領職任命の二重構造が、幕府と鎌倉公方の対立をふかめたとも。

 

じっさい、実質的な関東管領補任権をもつ幕府(将軍)と関東管領の山内上杉家の関係は良好で、幕府(将軍)は関東十国の実質的な軍事権と越後の守護職ももつ山内上杉家を通じて関東支配をもくろみました。

 

4代将軍・足利義持の応永二十三年(1416年)、前関東管領の上杉氏憲(禅秀)が反鎌倉公方の兵を挙げ、このときは幕府と鎌倉公方の協力で鎮圧されます。
しかし、乱後の処理で4代鎌倉公方・足利持氏の独立的行動が目立ち、幕府と鎌倉公方の対立は決定的となりました。

 

じつは幕府にも補佐役である管領職が置かれ、三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏の3氏)から交代制で管領の職に就きました。
しかし幕府の重要案件は四職(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の4氏)も含む氏族から選ばれた宿老会議で諮問・決定されるようになり、とくに強大な軍事力をもつ四職家の存在もあいまって、室町幕府は複雑な政争の場となりました。

 

応永三十二年(1425年)、5代将軍・足利義量が病死、正長元年(1428年)に前将軍の義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は義持の猶子という名分により6代将軍の座を狙いました。


しかし、管領や宿老らの協議により、6代将軍は義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになり、天台座主義円が還俗して足利義教として将軍職に就きました。

 

将軍職に就いた義教は独裁的な姿勢を強め、鎌倉公方・持氏との関係は抜き差しならぬものとなり、ついに永享十年(1438年)、武力衝突(永享の乱)に至りました。

 

持氏は敗れて自害し、鎌倉府および鎌倉公方家は一時潰滅状態となりました。
しかし、嘉吉元年(1441年)将軍・義教が赤松満祐に殺害(嘉吉の乱)されると鎌倉公方再興の気運が高まり、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方として復帰しました。
このときの成氏側近には、房総を拠点とする真里谷武田氏や里見氏が置かれたといいます。

 

しかし成氏は、幕府や関東管領(山内上杉氏)との対立を解消することはできませんでした。
折しも山内家の家宰は長尾景仲、扇谷家の家宰は太田資清(太田道灌の父)というふたりの知恵者が揃い、権謀術数も巡らされて事態はますます複雑になりました。

 

享徳三年(1454年)12月、成氏は関東管領・上杉憲忠を謀殺。連携して真里谷氏、里見氏らの成氏側近も長尾実景・憲景父子を殺害しました。
憲忠の弟・上杉房顕が関東管領に就任し、従弟の越後守護上杉房定と合流して上野國平井城に拠りました。(「享徳の乱」のはじまり。)

一方、山内家家宰・長尾景仲は武蔵分倍河原で成氏軍と戦い敗れて常陸國小栗城に逃れました。

 

関東管領サイドからの要請を受けた幕府は成氏征討を決定。

駿河守護今川範忠に出陣を命じ、成氏が北関東を転戦する隙に本拠地鎌倉は今川範忠軍に占拠されました。
成氏は鎌倉入りを断念、下総國古河に入って以後古河城を本拠とし「古河公方」と呼ばれました。

 

この結果、関東地方は利根川を境界に東側を古河公方(成氏)、西側を関東管領(山内上杉氏)陣営が支配するかたちとなりました。

 

長禄元年(1457年)12月、将軍・義政は異母兄の政知を鎌倉公方として関東に向かわせましたが、強大な直衛軍をもたない政知は混乱する鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越に留まって「堀越公方」と称しました。


鎌倉府に公方不在の状況となり、関東の政情は混迷を深めました。

 

文明十四年(1483年)11月、細川政元の仲介で幕府と成氏の和睦が成立し、成氏の関東統治が認められましたが古河公方家は残り、伊豆の支配権は政知(堀越公方)が握ったままでした。

 

この時代の関東の情勢を複雑にしている一因として、山内・扇谷両上杉家の対立があります。
扇谷上杉家はもともとは関東管領を出せる家柄でしたが、次第に山内上杉家に押され、鎌倉公方家についたり、関東管領についたりと旗幟鮮明ではありませんでした。

 

享徳の乱で勝者側の足利将軍家と結んだ扇谷家の上杉持朝は、家宰の太田資清・道灌父子に命じて河越城、江戸城、岩槻城を築城させ、河越に拠点を移して勢力を伸ばしました。
しかし文明十八年(1486年)、太田道灌は糟屋館で主君の(扇谷)上杉定正によって暗殺され、道灌の実子・資康や道灌薫陶の武将らは山内家へと奔りました。

 

その結果、山内家と扇谷家の対立は強まり、堀越公方・政知と結んだ山内家と古河公方・成氏に接近した扇谷家は長享元年(1487年)、ついにぶつかりました。(長享の乱)。

この戦いで山内家、扇谷家ともに疲弊し、結果として後北条氏(北条早雲)の台頭を許すことになります。

 

後北条氏初代・北条早雲の小田原城奪取は明応四年(1495年)、伊豆平定は明応七年(1498年)とされ、このあたりから南関東では後北条氏の存在が大きくなりました。

 

明応六年(1497年)の成氏の死後、古河公方家では2代公方・足利政氏と、3代公方・足利高基が対立しました。


この頃、上総國には甲斐武田氏の分家である真里谷武田氏が勢力を張っていました。

真里谷氏5代当主・信清(恕鑑)には南関東制圧の野望があり、政氏の子で鶴岡八幡宮若宮別当であった空然をかつぎ還俗させて足利義明と名乗らせ、永正十四年(1517年)頃に下総小弓城に迎えて「小弓公方」と称しました。

 

公方の後見という立場を得た真里谷恕鑑ですが、常総には安房の里見氏や千葉一族の臼井氏、常陸國の小田氏、そして同族の庁南武田氏などが割拠し、制圧は困難でした。

 

後北条氏は関東管領家・山内家と近く、小弓勢、ことに真里谷恕鑑は扇谷家と結んで対立関係がつづきます。

 

大永四年(1524年)、後北条氏が江戸城を占領。江戸城に拠っていた扇谷家の上杉朝興は河越城に逃れました。

海に面し房総にも近い江戸の地を制圧されたことは、小弓公方、真里谷氏、里見氏らの房総勢にとっては大きな脅威でした。

 

しかし上杉朝興と近い真里谷恕鑑は、大永四年(1524年)に品川港を勢力下に置いたともいい、この時期、小弓勢はなお後北条氏と拮抗した力をもっていたことがわかります。

 

上杉朝興は甲斐武田氏と関係がふかく、息女は武田晴信(信玄)の正室(上杉の方)となっています。

真里谷氏は甲斐武田氏の分家であり、そんなこともあって上杉朝興と真里谷恕鑑の関係がふかまったのかもしれません。

 

真里谷氏と里見氏はともに小弓公方方としてゆるやかな連携関係にあったようですが、小弓公方(足利義明)と真里谷恕鑑の関係が悪化し恕鑑が失脚、真里谷家内でも内訌が勃発して真里谷氏は勢力を弱めて里見氏が台頭、小弓公方(足利義明)方の主力となりました。

 

小弓公方の当主・足利義明は武勇知略に優れ、里見勢や真里谷勢を後ろ盾として勢力を伸ばし、古河公方やこれと結んだ後北条氏と対立関係に入りました。

 

一方、三浦半島の名族・三浦氏はこの頃三浦義同(道寸)が当主で、扇谷家や家宰の太田道灌と密接な関係にありましたが、文明十八年(1486年)の道灌暗殺を受けて扇谷家を離れ山内家へと奔りました。
しかし明応三年(1494年)頃には扇谷家に帰参しています。

永正三年(1506年)の永正の乱では房総へ渡海して要害を構え、古河公方・高基方と対峙しているので、この時点では三浦氏率いる三浦水軍はまだ健在であったことがわかります。

 

しかし、北条早雲との戦いが本格化すると次第に劣勢となり、永正十三年(1516年)、最期に拠った新井城(三浦市三崎町小網代)を落とされて三浦一族は滅亡しました。

 

小弓公方は扇谷家との関係が近かったため、扇谷家与党の三浦氏を攻める必要はありませんでしたが、三浦氏滅亡により三浦半島が後北条氏の勢力下に入ると、攻略の必要が出てきます。

 

三浦氏滅亡を受け、小弓公方は上総・下総側から真里谷氏、安房側から里見氏という二正面作戦をとった可能性があります。

 

じっさい、大永六年(1526年)5月には真里谷氏が浅草郊外の石濱城を攻め、里見氏重臣の正木通綱率いる水軍も品川湊を攻撃して江戸城に圧力をかけています。
正木通綱は安房國鴨川を本拠とする水軍の大将で、安房鴨川から出航した可能性があります。

 

さて、ここでようやく大船や玉繩が出てきます。

 

『里見軍記』『北条記』などによると、大永六年(1526年)8月、4代当主里見義豊と叔父実堯は重臣に対して水軍を安房岡本(南房総市富浦町豊岡)に集めるように指示。
同年11月、実堯(義豊同行説あり)は、正木氏・安西氏・酒井氏・鎌田氏などの水軍勢数百隻を連ねて、対岸の三浦~鎌倉に向けて出航しました。

 

大永六年(1526年)11月26日、鎌倉の海岸に達した里見水軍は難なく上陸し、鎌倉市内で後北条軍との戦闘に及びました。
このとき鶴岡八幡宮や社家が炎上したので、この戦いは「鶴岡八幡宮の戦い」と呼ばれます。

 

里見軍は、そののち鎌倉の北の玉繩城に向かいました。
同時期に(扇谷)朝興も玉繩城に攻撃をかけており、里見軍の目標はもともと北条氏時(玉繩北条氏初代)拠る玉繩城で、扇谷勢と挟み撃ちにする意図があったとみられています。

 

しかし、屈指の堅城として知られる玉繩城の守りは堅く、北条氏時は城下の戸部川に討ち出でて里見軍を迎え撃ちこれを撃退。扇谷勢も撤退し、後北条氏は鎌倉・三浦一帯を防衛しました。
これが「戸部川の戦い」で、戦死者を弔う甘糟塚(玉繩首塚)という塚がいまも残ります。

 

『かまくら子ども風土記』の「玉繩首塚」の説明に「1526年(大永6年)、安房の武将の里見実堯が鎌倉に攻め込んできたとき、玉縄城主の北条氏時は家臣らと戸部の川のほとりに出て戦い、北条氏に従っていた渡内(今の藤沢市)の福原氏や大船の甘粕氏の一族も共に戦いました。数度の合戦で里見の軍勢を追い払いましたが、この戦いで甘粕氏ら35人が戦死し、里見方にも多くの死者が出たということです。戦いの後、氏時は味方の首と敵の首とを交換してここに埋めて塚を築き、この戦いで犠牲になった敵味方双方の霊を供養したといわれています。」とあり、甘糟氏が北条氏時勢として合戦に参加していることがわかります。

 

この時の甘糟氏の当主ですが、『新編相模國風土記稿』は「舊家小三郎 里正なり、甘糟を氏とす。」として、甘糟家に伝わる古い木牌を紹介し、甘糟氏3名の名を挙げています。
うち、
備後守清長(面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣清長、永正二乙巳(1505年)天七月八日と刻す。
佐渡守長俊(面に、隨岫寶順禅定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午(1582年)天三月十三日と刻す)

とあり、年号が没年を示すとすると、大永六年(1526年)の「戸部川の戦い」に参加できたのは、天正十年(1582年)没の甘糟佐渡守平朝臣長俊ということになります。

 

しかし、『新編相模國風土記稿』は「大永六年(1526年)十二月北條氏綱が兵と里見義弘戸部川の邊に戦ひ、北條勢三十五人討死す。かりて其首級を合せ埋し、榎を植て標とす、此家の祖先某其一にして且其魁たり、故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を伝へざれど年代をもて推考するに備後守清長が男なるべし」とあり、「戸部川の戦い」で討ち死にしたのは、甘糟備後守清長(1505年没)の男(息子)と推測しています。


鎌倉の内陸側にある玉繩城を、安房の里見勢が攻めたというのは地理的に違和感があってどこか不思議な感じもしますが、じつはこのような複雑な経緯がありました。

 

それにしても海から玉繩城を攻める場合、慎重策をとるならば三浦半島のどこかに上陸し、そこから陸づたいに進んで玉繩城を攻めそうな感じがします。

それをなんと鎌倉の海岸に真正面から上陸し、合戦慣れした後北条軍を蹴散らして玉繩に至るとは、里見水軍おそるべしです。

 

しかしよくよく考えると、軍船から鎌倉の浜に矢を射かけ、鎌倉の街や寺社に火を放ったというのは城攻めの軍勢の振る舞いとしては不自然で、一種の示威行為にも思えます。

また、鎌倉市内から玉繩に向かうには巨福呂坂、亀ヶ谷坂、化粧坂のいずれかの切り通しを通る必要があり、これは戦略的に大きなリスクを伴います。

 

 

亀ヶ谷坂 / 化粧坂

 

一方、かつての戸部川(柏尾川)流域、ことに大船南部の深沢あたりは大きな池であったと伝わり、戸部川(柏尾川)の水量は現在よりはるかに豊富であったとみられます。

また、玉繩城の利点として、城下の戸部川(柏尾川)経由で相模湾まで船を出せたことが挙げられています。

 

とすると、里見軍の主力は江ノ島から戸部川(柏尾川)を遡った水軍勢で、鎌倉市内を荒らしたのは、示威行為、あるいは玉繩城の後方攪乱を狙った別働隊であったのかもしれません。

 

この戦いが「玉繩(城)の戦い」ではなく「戸部川の戦い」と呼ばれたのは、里見水軍と玉繩北条軍が戸部川で攻防を繰り広げたことを示すのでは?

 

これはあくまでも筆書の推測ですが、安房の里見水軍が浦賀水道を渡り、江ノ島から戸部川(柏尾川)を遡って玉繩城に攻めかかる、というのはなかなかイメージのふくらむ展開ではあります。

 

武山(横須賀市)から浦賀水道と安房方面

 

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天文七年(1538年)里見義堯、真里谷信応らを率いた足利義明は北条氏綱・足利晴氏(古河公方)連合軍に決戦を挑みました。(第一次国府台合戦)
義明勢は善戦したものの後北条軍の攻撃を受けて壊滅、義明は討死し小弓公方は事実上滅亡しました。(のちに一時的に復活。)
しかし義明の子孫は存続し、のちに石高4500石ながら十万石格という異例の藩・喜連川藩の藩主となります。

 

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義明の死後、義堯は上総の久留里城を本拠としてさらに勢力を伸ばし、後北条氏と熾烈な戦闘を繰り広げました。

 

後北条氏は、天文十五年(1546年)の河越夜戦で扇谷家を滅ぼし、山内家を越後に追放した後、古河公方足利氏も追って関東の大部分を制圧しました。

 

しかし、弘治二年(1556年)、里見義堯は数十艘の軍船を率いて三浦沖まで進軍。

城ヶ島に陣を構える後北条軍と戦闘・撃破して三浦半島南部を一時制圧し、のちに里見軍は安房・上総へ引き揚げたものの、里見水軍の強さを後北条勢に改めて知らしめました。(三浦三崎の戦い)

 

永禄六~七年(1563-1564年)、里見軍は上総國国府台でふたたび後北条軍と干戈を交え(第二次国府台合戦)、里見軍は敗戦を喫したものの、永禄十年(1567年)の三船山合戦(現・君津市/富津市)では浦賀水道で北条綱成率いる水軍を里見水軍が撃退するなど、里見軍は勝利し、後北条軍は全軍が上総から撤退しています。

 

↑ 国府台城の御城印。

上部で第一次合戦の小弓公方足利氏(二つ引) vs 後北条氏(北条三つ鱗)、

下部で第二次合戦の里見氏(二つ引) vs 後北条氏(北条三つ鱗)

をあらわすなど、芸が細かいです。

 

 

天正五年(1577年)、ついに里見義弘と北条氏政との間で和睦が成立(房相一和)。
関東最強を謳われた後北条氏も、ついに里見氏の安房國(および上総國の一部)を領国に加えることはできませんでした。

 

以上で、玉繩城&戸部川の戦いを巡るお話はおわりです。

 

神奈川県神社庁公式Web(熊野神社)には、多聞院が別当をつとめた熊野神社は「甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将(中略)厚い崇敬の誠をつくせり。」とあり、上記の史料・史蹟からしても甘糟氏は後北条(玉繩北条氏)方の有力武将で、大船周辺に拠っていたことはあきらかです。


甘糟氏の本拠・大船から山ノ内の「瓜ヶ谷やぐら群」までは南に数㎞しか離れておらず、この地にあった観蓮寺を大船に移し多聞院として再興という流れは自然です。

甘糟氏はもともと鎌倉市内に拠点がなかったとすると、鎌倉枢要の地である比企谷から大船まで寺院を遷すことは考えにくく、やはり観蓮寺は山ノ内の「瓜ヶ谷やぐら群」周辺にあったのではないでしょうか。

 

多聞院はもと手広青蓮寺の末寺でしたが、昭和25年に青蓮寺の前住職である草繋全宜が京都大覚寺の門跡となったため、同寺の末寺となりました。

 

寺宝として、多くの仏像を蔵します。
御本尊の木造毘沙門天立像(三尺一寸・厨子入)は、弘法大師の御作と伝わる名作で毎年4月の御開帳。脇侍に吉祥天女と善膩師童子を置いているようです。

 

御本尊脇に安置の「岡野観音」と呼ばれる十一面観世音菩薩坐像は、鎌倉各地に伝わる染屋太郎大夫時忠の娘にゆかりのお像です。

『かまくら子ども風土記』、「鎌倉史跡碑事典」様の記事、および「由比(ゆい)の長者」(鎌倉むかし物語様)を参考にまとめてみます。


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染屋時忠は藤原鎌足の4代目の子孫にあたり、奈良東大寺開祖の良辨の子(父とも)といいます。
文武天皇御代(697-707年)から聖武天皇御代(724-728年)にかけて関東八ヶ国惣追捕使として鎌倉に住んだといいます。
屋敷は由比にあり、「由比長者」ともいわれたとの由で、甘縄神明宮の元別当・甘縄院は時忠が建立とも伝わります。

 

時忠夫婦には長年子がなく、子宝を授けを熱心に観音さまにお祈りすると、玉のように綺麗な女の子が生まれました。

時忠夫婦は、ようやく授かった娘を大切に育て、愛らしく成長して3歳になりました。
ある日、娘が由比ヶ浜の砂浜で遊んでいると、大きな鷲が舞い降りて娘をさらい、いずこともなく飛び去っていきました。
お付きの家来たちは突然のことで、なすすべがありません。

一人娘をさらわれた長者夫婦は、必死になって探しましたが一向にみつかりません。
道ばたで誰のものかもわからない骨のかけらを見つけるたびに、そこに石塔を建てては供養しました。

夫婦はとうとう六国見山の南で、変わり果てた娘の亡骸を見つけました。
夫婦は泣く泣く山の上に娘を葬り、石の供養塔を建てました。
その墓は「稚児の墓」と呼ばれ、いまも六国見山にあります。

時忠夫婦が建てたとされる石塔は鎌倉市内各所にあり、人々はこの逸話を「由比の長者」と呼び、石塔のある場所を「塔ノ辻」と呼んで時忠夫婦の娘の冥福を祈ったということです。

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また、もともと観音信仰の篤かった時忠夫婦は、娘の菩提のために十一面観世音菩薩像を造立、娘の遺骨をその胎内に収め、観音堂を建立して安置したといい、これが鎌倉郡三十三ヶ所観音霊場第14番札所の旧「岡野観音堂」と伝わります。

『新編相模國風土記稿』には、岡野観音は火災に遭い御首のみ残して焼けてしまいましたが、運慶がその模像を刻し、彼の御首を胎中に納めたとあります。

 

岡野観音はのちに多聞院に遷りますが、天保十二年(1841年)編纂の『新編相模國風土記稿』に、享保四年(1719年)の『多聞院縁起』に多聞院観音堂に岡野観音御座の記載あり、と記されているので、多聞院への遷座は享保四年(1719年)以前とみられます。
(もともと「岡野観音堂」があった地に、多聞院が建立されたという説もあります。)

 

相州大山寺(良辨開山)の『大山寺縁起』に、良辨は幼い頃、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれ、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵(良辨の師)に助けられ、僧として育てられたとあり、「由比の長者」の逸話と相まって人口に膾炙したのかもしれません。


多聞院は、関東九十一薬師霊場第21番、関東百八地蔵尊霊場第90番の札所でもあります。

 

関東九十一薬師霊場の札所本尊は、本堂御内陣厨子内奉安の薬師如来木彫坐像で、明治初期に島根県の一畑薬師から勧請、関東大震災後に当山に奉安され、ことに眼病治癒の霊験あらたかとして「一畑薬師」と呼ばれ人々の信仰を集めるそうです。

 

関東百八地蔵尊霊場の札所本尊は、本堂内安置の「延命地蔵尊」と、巣鴨のとげぬき地蔵尊ゆかりの「とげぬき地蔵尊」の両尊のようです。
「延命地蔵尊」は、もともと鎌倉郡粟船村大門の地蔵堂にあり、明治の廃仏毀釈時に当山に遷られたようです。

じっさい、関東百八地蔵尊霊場の御朱印尊格は「粟船地蔵尊」となっています。

 

また、山ノ内には陰陽師・安倍晴明に関係する「安倍晴明石」((山ノ内)八雲神社内)と「晴明井戸」(民家内)が残されていますが、これらはかつて多聞院の管理だったという伝えがあります。
これらは山ノ内の「観蓮寺」ゆかりとみる向きもありますが、裏付ける史料がみあたらず定かではありません。

 

歴史ある名刹であることを裏付けるように、

後白河法皇院宣

後嵯峨上皇院宣

光厳上皇院宣

の3通は、「多聞院文書」として鎌倉市指定有形文化財となっています。

 

『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)は「(大船)熊野神社」の項で、「現在、多聞院に新熊野社領安房国群房荘に関する院宣三通があるのをはじめ、荏柄神社等にその関係文書がある。『風土記稿』は何をまちがえたのか、群房庄を当社領と述べているが、この庄が鶴岡八幡宮の所領であったことは明らかである。従って当社の所領と考える理由はない。こらの文書は恐らく康正以降鶴岡が衰弱したために流出し、熊野の名があるので、ここに奉納されたものであろう。」と記しています。

 

熊野神社の神職・鈴木氏は、鶴岡八幡宮の社役を兼帯しており、その関係から熊野神社の別当・多聞院に、鶴岡八幡宮由来の院宣が伝わったのかもしれません。

 

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【史料・資料】

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)

(大船村)多聞院
天衞山福壽寺と号す(山之内村瓜ケ谷に、観蓮寺屋舗と唱る白田あり、当寺の持とす。観蓮は、蓋当寺の舊号にや)
古義真言宗 手廣村青蓮寺末
本尊毘沙門 長三尺、弘法作
三世僧を賢朝と云寛永二十年(1643年)九月寂す
地藏堂 運慶の作佛を安ず 長二尺余 村持下同
不動堂 弘法の作佛を置 長三尺余
観音堂
十一面観音を置、運慶の作なり 長三尺 享保四年(1719年)に記せる縁起に依に、染屋太郎太夫、時忠の兒、三才の時鷲に●搏せられ、其喰余の骨を、此地に落せしかば、菩提のため、観音を彫刻し、殘骨を御首中に納む、後回禄に罹り、御首のみ燼余に得しを、運慶其模像を刻し、彼御首を胎中に納むとなり、是に鎌倉塔辻の故事に基き作意せしなり
祐天の名号一幅を蔵す

木曾塚

義高の舊塚なり 高さ二尺、周径三尺余 上に五輪の頽碑あり。塚邊を木曾免と云を見れば古は免田などありしならん 常楽寺の條、併見るべし(此塚より少許を隔て、五輪の頽碑あり。由来を伝へず)

兒塚

六國見の南方山上にあり、上に石碑を建(半は地中に陷入れり、面に悉曇の字仄かに見ゆ)染屋太郎大夫時忠が兒の墳なりと伝ふ

最蔵坊塚

村北白田間にあり、塚上に石人を置 高四五尺 鶴岡の職掌鈴木主馬が祖先の墓なりと云 鈴木家伝を按ずるに、祖鈴木左近重安、治承中(1177-1181年)鶴岡の職掌となり、戦国の間、永享中(1429-1441年)当村に移住し、鶴岡社役を兼帯し、最蔵坊と唱へ、村内熊野社神職を勤めしとなり、故に今も熊野社の神職を兼ぬ

北條泰時亭跡

【東鑑】仁治二年(1241年)十二月の條に泰時巨福礼の別居と載す(曰、十二月三十日前武州渡御于山内巨福礼別居)巨福礼は、即隣村小袋谷なり、されど彼村内に其舊跡を伝へず、当村大船山上に平衍の地(濶八段余)あり、亭跡のさま彷彿たり、又其東方小名大明神の田間に古井あり、近きあたりに檜垣・御壺谷と云小名あれば此二所の内泰時の邸跡なるべし

舊家小三郎

里正なり、甘糟を氏とす。先祖は上杉氏に仕へ後北條氏に屬せしと云へど口碑のみにして家系舊記等を伝へず、唯家に舊き木牌を置けり、

一は土佐守清忠(面に、道本禅門、背に、甘糟土佐守平朝臣清忠、文明九丁酉(1477年)天二月十一日と刻す)

一は備後守清長(面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣清長、永正二乙巳(1505年)天七月八日と刻す。按ずるに【上杉家將士列伝】に、甘糟備後守清長の名あれど是は慶長の頃在世たれば、時代殊に違へり、同名別人なるべし)

一は佐渡守長俊(面に、隨岫寶順禅定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午(1582年)天三月十三日と刻す)等なり
長俊始太郎左衞門と称せり。則永禄十年(1567年)常楽寺文殊の像を修飾し(像の胎中に收むる木牌に記す)天正七年鎮守熊野社の神體を再興せしは此人なり(神體の台座に記す)〕


是等最古を徴するに足れり、又玉繩岡本村に首塚或は甘糟塚と唱ふるあり、此家の伝へに大永六年(1526年)十二月北條氏綱が兵と里見義弘戸部川の邊に戦ひ、北條勢三十五人討死す。かりて其首級を合せ埋し、榎を植て標とす、此家の祖先某其一にして且其魁たり、故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を伝へざれど年代をもて推考するに備後守清長が男なるべし、又天正十三年(1585年)閏八月圓覺寺廓架再興助力人の列に甘糟外記の名あり、是も祖先のうちなりと云へど系伝を失ひたれば詳にし難し、古鞍一背を蔵す、是上杉氏授與の物と云ふ、一通は天正九年北條氏より当村代官百姓中に興へし物なり、全文は村名の條に註記す、其余の数通は永仁・正和・應安・康暦・應永・永享等の文書、及上杉氏小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に関係するものなり、伝来の由来詳ならず

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大船村)熊野社

村の鎮守なり、束帯の木像を安ず 座像長八寸許、古は画像を安ぜしと云ふ、其像は今舊家
小三郎の家に預り蔵す、台座に天正七年(1579年)安置の事を記す
古は安房國群房庄当社領たりしこと壽永二年(1183年)の院宣に見えたり(中略)
建長二年(1250年)更に彼地当社領として尼性智所務すべき由又院宣あり(中略)
貞和二年(1346年)又院宣を下され、社領安堵せしめられしと云(中略)
例祭九月二十四日 別当は多聞院にて、鶴岡職掌鈴木主馬神職を兼ぬ

【末社】
神明 古は字神明下にあり、寛永の頃甘糟右近亮時綱(舊家小三郎が祖先)此に移せり
金毘羅 安永九年(1780年)地頭長山氏勧請す
秋葉三社 権現稲荷
神明宮 多聞院持
御岳社 村民持
稲荷社 村持

 

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)

天衞山福寿寺多聞院と号する。
古義真言宗。もと青蓮寺末。いま京都大覚寺末。
開山は南介僧都と伝え、二世賢怡の位牌が現存する。
本尊、毘沙門天。
境内地四四七.九三五坪。
本堂・庫裏・門あり。
『関東古義真言宗本末帳』には多聞院とあり、境内も除地でなかったということになりそうである。くわしいことはわからない。
『風土記稿』には山之内村瓜ケ谷に観蓮寺屋敷という田があり、多聞院の持であるからもと観蓮寺といったのではないかということが買いてある。
二世賢怡は天正十五年(1587年)九月に寂し、また三世賢朝は寛永二十年(1643年)九月寂すというから、創立年代も推して知るべしである。
寺伝に甘糟氏が開基と伝えている。
大船の熊野神社の項を参照されたい。

 

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)/(大船)熊野神社

祭神、日本武尊。
元村社。大船の鎮守。
境内地二一二.三八坪。
本殿・拝殿(神楽殿)・末社金比羅社(祭神崇徳天皇)などがある。
勧請年月未詳。
もと別当は多聞院。神職は鶴岡職掌鈴木主馬という。
現在、多聞院に新熊野社領安房国群房荘に関する院宣三通があるのをはじめ、荏柄神社等にその関係文書がある。
『風土記稿』は何をまちがえたのか、群房庄を当社領と述べているが、この庄が鶴岡八幡宮の所領であったことは明らかである。
従って当社の所領と考える理由はない。こらの文書は恐らく康正以降鶴岡が衰弱したために流出し、熊野の名があるので、ここに奉納されたものであろう。
御神体となっている束帯の木像の台座には、天正七年勧請、寛政二年再興の銘がある。
『風土記稿』の銘文は脱字があるうえに、再興の銘を省略している。この銘文によると天正七年の勧請となる。
『風土記稿』は古い画像を安置していたといい、その画像は其像は甘糟小三郎の家に預かっているというが、いま見ることはできないから、これ以上のことは未詳である。
なお多聞院に天正九年(1581年)の銘がある高台付椀があるから、天正七八年頃はかなり盛大であったのであろう。

 

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)

比企ヶ谷(抜粋)
大町より東の方の山際なり。比企の判官能員の舊跡幷御所の跡もあり。
委細は妙本寺幷比企の舊跡の條を合せ見るへし。(中略)
比企の禅尼は能員の姨母にて、此前栽に瓜園を設け興ありとて(中略)此邊を瓜ヶ谷と地名せしか、中古以来其唱へはなけれとも、文明(1469-1487年)の頃迄は称したるゆへ(以降略)

 

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JR横須賀線「北鎌倉」駅の北方に聳える六国見山の北西麓に、熊野神社と並んであります。

 

 

熊野神社の社頭 / 熊野神社鳥居の扁額


このあたりは甘糟氏の本拠で、すぐそばにある宝永五年(1708年)に建てられた甘糟家の屋敷は、現在リニューアルされて宿泊施設「甘糟屋敷」となっています。

 

 

外観 / 山内入口

 

 

院号標 / 本堂

 

 

天水鉢 / 庫裏

 

山内入口に院号標。その先に見えるのが不動堂です。
不動堂向かって左手の熊野神社寄りに本堂、その奥が庫裏(ないし客殿)です。

 

本堂向拝 / 扁額

 

本堂はおそらく宝形造で桟瓦葺。
向拝柱のないすっきりとした意匠で見上げに扁額を掲げています。
扁額は達筆すぎて確信がないのですが、山号扁額かもしれません。

 

 

不動堂 / 向拝

 

不動堂は寄棟造銅板葺で前面に向拝を附設しています。
向拝柱まわりの装飾はほとんどなく、シンプルです。
向拝身舎に院号札、上部に不動尊の奉納額を掲げています。

 

こちらに御座の不動尊は、おそらく『新編相模國風土記稿』に「不動堂 弘法の作佛を置 長三尺余」とある尊像で、弘法大師ゆかりの「波切不動尊」として信仰を集めたようです。
じっさい奉納額には「波切不動尊」とあり、奉納人には「日本橋」「本所」「神田」「深川」「浅草」などの地名が並びます。

 

 

院号札 / 不動堂の奉納額

 

山内に多くの仏像を安置しますが、室町時代の作と伝わるのは木造聖観世音菩薩坐像、木造地蔵菩薩立像(延命地蔵尊)、木造弘法大師坐像のようです。

 

御朱印は庫裏にて拝受しました。

 

〔 多聞院の御朱印 〕

 

 

御本尊の御朱印 / 薬師如来の御朱印

 

地蔵尊の御朱印

 

 

94.粟船山 常楽寺
(じょうらくじ)
鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)

鎌倉市大船5-8-29
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:

 

常楽寺は、大船にある臨済宗建長寺派の名刹です。
建長寺の開山・蘭渓道隆(大覺禅師)が住持となったことでも知られています。

 

開山は退耕行勇(1163-1241年)。
北条泰時が開基となり嘉禎三年(1237年)泰時夫人の母の追善供養のために創建といい、当初は「粟船御堂」と呼ばれたといいます。
(常楽寺を号したのは、開基の北条泰時が仁治三年(1242年)6月に逝去し、その法号の「常楽寺殿」からとったという説があります。)

 

北条泰時(1183-1242年)は鎌倉幕府3代執権で、御成敗式目を制定するなど名執権として知られています。


泰時夫人として正室が矢部禅尼(三浦義村の息女、1187-1256年)、継室に安保実員の息女が伝わります。

泰時は公的に常楽寺を重用しているので、正室・矢部禅尼の母の線が強いのではと思いきや、建仁三年(1203年)に嫡男時氏を産んだのち、矢部禅尼は泰時と離別しているので、あるいは安保実員の息女の母かもしれません。

 

泰時と安保実員の息女の子・北条時実は嘉禄三年(1227年)6月、家人の高橋二郎によって殺害され、当日夜には時実の乳母父である尾藤景綱が出家しています。
尾藤景綱は執権北条氏の宗家(得宗家)の執事・内管領の実質初代とも目され、出家後も得宗家の執事として重きをなしたといいます。

 

泰時の室や子の去就は複雑で、「泰時夫人の母」を辿るのは容易でないですが、とにかく常楽寺は「泰時夫人の母の追善供養のために創建」と伝わります。

 

寛元四年(1246年)、南宋の禅僧・蘭渓道隆は来日すると5代執権北条時頼(1227-1263年)の帰依を受けて鎌倉・壽福寺に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺の住持となったといいます。

 

蘭渓道隆は建長五年(1253年)、北条時頼により建長寺の開山に招じられるまで常楽寺に住持されたといい、常楽寺の蘭渓道隆を慕って「常楽寺有一百来僧」の盛況となり、「常楽は建長の根本なり」という言葉が伝わります。

それだけに常楽寺の宗派来歴は重要ファクターで、史料にもこれにまつわる記載が目立ちます。

 

開山の退耕行勇が関与したとされる主要寺院の宗派は、以下のとおり多彩です。
・鶴岡八幡宮寺(多宗派)
・永福寺(鎌倉、宗派不明)
・大慈寺(鎌倉、臨済宗?)
・荘厳寺(栃木県真岡市、天台宗)
・寿福寺(鎌倉、臨済宗)
・聖福寺(福岡市、臨済宗)
・東大寺(奈良市、華厳宗)
・金剛三昧院(和歌山県高野町、真言宗)
・東勝寺(鎌倉、臨済宗)
・浄妙寺(鎌倉、真言宗→臨済宗)


退耕行勇は、はじめ密教を学んだともいい、後に入られた高野山の金剛三昧院が「密・禅・律の三宗兼学寺院」とされていることからも、幅広い宗派に精通していたとみられます。

 

また、蘭渓道隆は松源崇嶽~無明慧性の臨済禅の法統ですが、来日したのは泉涌寺の僧・月翁智鏡との縁によるとされます。


泉涌寺の実質的な開山は月輪大師俊芿とされ、天台、東密、禅宗、浄土、律(北京律)兼学の道場でした。

この影響もあって、蘭渓道隆は禅宗のほか、天台、東密(真言)、浄土、律(北京律)についての造詣も深かったとみられます。

 

退耕行勇は明菴栄西の弟子で臨済禅黄龍派の法統、蘭溪道隆は臨済禅松源派・大覚派の法統(あるいは月翁智鏡との縁から楊岐派も)とみられ、退耕行勇・蘭溪道隆ゆかりの常楽寺は法統的にも臨済禅の本流的位置づけにあり、この点もあって常楽寺が「常楽は建長の根本なり」と呼ばれ、重要な地位を占めたのでは。

 

常楽寺が臨済禅において聖地化されたため、常楽寺の草創以来の宗派がいっそう重要になったものと思われます。


『鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)』も、この点について掘り下げているので抜粋引用します。
行勇は高野山金剛三昧院から泰時に招かれ、禅宗兼修の僧であることは周知の通りで、寛元元年(1243年)の泰時祥忌の供養はこの堂において行われ、その仏事は曼荼羅供であった。建長六年(1254年)の(泰時)十三年供養導師は信濃僧正道禅で、この時の請僧はいづれも密教系の人々で、その仏事は真言供養であったというから、泰時が出世して観阿と号し、常楽寺の本尊が阿弥陀であっても、これは念仏専修の寺院が剏まったことを意味するわけではない。その仏事修法からみて密教系の寺院だったのである。

 

一方で同書は「現存する鐘は宝治二年(1247年)の銘があり、これには「寺号常楽」とあってこの年には常楽寺と称していたことを知ると共に、この年には禅寺となっていたことを知ることが出来る。」としつつも、「泰時の十三年供養が行われたときの導師が道隆でなくて信濃僧正道禅であるのは何を意味するのであろうか。」と、含みのある表現をしています。

 

つまり、鐘銘によれば宝治二年(1247年)には禅刹となっているはずなのに、建長六年(1254年)の十三年供養では密教系僧侶による真言供養が修され、建長五年(1253年)、蘭渓道隆が建長寺開山となって以降も常楽寺は禅宗一色でなかったことは、たしかにどこか釈然としないものはあります。

 

御本尊を阿弥陀三尊とすること、開基の北条泰時が阿弥陀如来の「阿」を含む「上聖房観阿」を号したことなどから、当初浄土宗説もありますが、泰時が出家して「観阿」を号したのは体調をくずしたのちの仁治三年(1242年)5月、御本尊の阿弥陀如来には泰時の死の直前の同年6月15日の日付があるといいますから、泰時に浄土宗への帰依があったとみるより、死を間近にして阿弥陀(浄土)信仰が高まったとみるべきなのかもしれません。

 

なお、「日本初の禅寺」とされる福岡の聖福寺で釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍が置かれたことからも、阿弥陀は浄土宗固有の尊格ではないことがわかります。

ただし、蘭渓道隆とのゆかりがふかい「文殊堂」が、扇ガ谷の浄土宗寺院・英勝寺から移ったという説があることは、常楽寺と浄土宗の何らかの関係を示唆するものかも。

 

伊豆の名刹・修禅寺は当初真言宗でしたが、建長年間(1249-1255年)に元の密偵と疑われた蘭渓道隆が避難のために来住した際、臨済宗に改宗されています。

(のちに伊勢新九郎長氏(北条早雲)により曹洞宗寺院として再興。)

 

ここから考えると、常楽寺は当初真言宗もしくは北京律で、のちに蘭渓道隆が入山されて臨済禅に転じたとみるのが自然ではないでしょうか。

 

『鎌倉攬勝考』には「【元亨釋書】に云、副元帥平時頼は、隆蘭溪か、宋より来化せしを請し迎えて、先爰の常楽寺へ安居せしむとあり。或はいふ、此寺もとは天台宗なる由記したれと、真言宗なるへし。扨(さて)蘭溪が住せしより以来、禅派になりしといふ。此ゆへに、梵仙か榜に、開山蘭溪と云云。」とあり、このことからも、常楽寺当初の宗派に諸説あったことがうかがえます。


また、学識の高さで知られた臨済僧・竺仙梵僊(1292-1348年)の「榜文」(告文)には、「常楽寺の開山は蘭渓道隆」とありますが、多くの史料はこの「榜文」を曳きつつも当山開山を退耕行勇としています。

 

常楽寺はのちに建長寺の末となり、建長寺領である十二所の地の配当を得ながら福山(建長寺)の塔頭・龍峯庵の兼管になったといいます。

安政四年(1857年)寂の龍淵和尚による中興は明らかですが、その後の状況は不詳のようです。
しかし、近世に復興を遂げ「常楽は建長の根本なり」という栄えある歴史をいまに伝えています。

 

「名執権」と謳われた当山開基・北条泰時の人となりについては、『正統記』の「泰時心正しく政すなほにして、よく人をはくゝみ、物に驕らす、公家の御事をおもくし、本所の煩ひを止めしかは、風の前に塵なくして、天の下則しまつりき。年代を累しこと、偏に泰時か力とも申伝ふめる。陪臣として、久敷権を執ることは、和漢両朝先例なし。其主たる頼朝すら、二世をは過す。泰時徳政を先とし、法式を堅くす。おのれか分をはかるのみならす、親族幷あらゆる武士迄もいましめ、高官位を望むものなかりき云云」という記載からもうかがい知ることができます。

 

仁治二年(1241年)6月27日、泰時は体調を崩して騒ぎとなりました。(『東鑑』)
同年11月25日、泰時は嫡孫の経時とその側近の実時を自邸に呼び、三浦泰村・後藤基綱などの有力御家人や二階堂行盛・太田康連らの官僚を招集して、経時を後継者として指名しました。

 

仁治三年(1242年)5月9日、泰時は出家して上聖房観阿と号し、6月15日に逝去しました。

享年60。泰時の墓は当山仏殿の背後にあります。
翌日、泰時の指名どおり4代執権に孫の経時が就き、執権北条氏の地位はゆらぎなく継がれていきました。


裏山の中腹にある「木曾塚」は木曾義高の墓と伝えられる塚で、もともと当寺の西南100メートルほどにあったものを、延宝八年(1680年)に現地へ移したといいます。

 

木曾義高(清水冠者)は、源(木曾)義仲の嫡男です。
寿永二年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃國を中心に勢力を広げました。
源氏ながら源頼朝公とは独立した勢力で、頼朝公と対立していた叔父の志田義広・新宮行家を庇護したため頼朝公との仲は険悪となり、義仲が11歳の嫡子・義高を人質として鎌倉へ送ることで両者の和議が成立しました。

 

義高は信濃国の名族海野氏や望月氏らとともに、頼朝公の長女で6歳の大姫の婿の名目で鎌倉入りしました。
義高と大姫は又従兄妹にあたり、家格の釣り合いはとれていたとみられています。

 

寿永二年(1183年)7月、義仲は平氏を破って入京したものの市内の平穏を保てず、後白河法皇とも対立しました。


同年11月、義仲は後白河法皇を法住寺合戦で破って幽閉し、頼朝公追討の院宣を出させるも、頼朝公は弟範頼と義経を将とする義仲追討軍を派遣し、寿永三年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、つづく粟津の戦いで討たれました。

 

父・義仲を討たれた義高は立場を失い、同年4月、頼朝公の義高誅殺の意を察した大姫(あるいは北条政子とも)は、義高を密かに逃がそうと図ります。
義高と同年の海野幸氏が義高になりすまし、義高は女房姿にやつし大姫の侍女達に囲まれて屋敷を抜けだし、鎌倉を脱出しました。


しかし、これを知った頼朝公は堀親家らに義高誅殺を命じました。
4月26日、義高は武蔵國入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれました。
享年12と伝わります。

 

義高の死を知った7歳の大姫は嘆き悲しんで病床に伏し、その後も床に伏す日々がつづいたといいます。

 

建久六年(1195年)2月、頼朝公は政子と大姫・頼家らの子女を伴い上京。
大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく入内工作をおこなったといいます。
しかし、この入内工作は朝廷内の勢力争いや大姫の病もあって実現せず、大姫は建久八年(1197年)7月逝去しました。享年20と伝わります。

 

頼朝公の晩年はどこか暗い影がつきまといますが、この義高と大姫の哀恋もそのひとつとして広く語られてきました。

 

常楽寺には大姫の墓と伝えられる塚が残るともいいます。
また大姫の守り本尊(念持仏)と伝わる地蔵堂を奉ずる地蔵堂(岩船地蔵堂)が扇ガ谷に残り、海蔵寺が護持して鎌倉二十四地蔵霊場第15番札所となっています。


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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大船村)常楽寺

粟船山と号す、臨済宗 鎌倉建長寺末
北條泰時が開基の道場にして(村民所蔵、永正十二年(1515年)、建長寺西来菴修造勧進状に、常楽檀那武蔵守権大夫泰時云々、)
【東鑑】に粟船御堂とある是なり(【東鑑】の文下に引用す。又同書に、嘉禎三年(1237年)十二月十三日、右京兆泰時為室家母尼追福於彼山内墳墓之傍、被建一梵宇、今日有供養之儀云々と見えたるもの、其舊跡今別に存せざれば恐らくは当寺なるべく覚ゆ、但し当寺創建の年代を伝へず、又泰時が母尼、室家等の墳墓の事も、こゝにで伝へもしなければ推考もて決し難し、)
仁治三年(1243年)六月十五日泰時卒してこゝに葬す 後に墳墓山あり、寛元々年(1243年)六月信濃法印道禅を導師とし、奉時が小祥の佛事を修す(【東鑑】曰、六月十五日、故武州禅室周闋御佛事、於山内粟船御堂、被修之、北條左親衛、幷武衞参給、遠江入道前右馬権頭、武蔵守、以下人々群集、曼茶羅供之儀也、大阿闍梨信濃法印道禅讃衆十二口、此供幽霊御在生之時、殊抽信心云々、)

同四年(1246年)宋の蘭溪本朝に帰化し鎌倉に下向して亀谷山壽福寺に寓せしを、北條時頼延てこゝに居しめ、軍務の暇屢訪ひ来たりて禅道を学べり、(【元亨釋書】道隆伝曰、以淳祐六年(1246年)、乗商船、着宰府、本朝寛元四年(1246年)丙午也、乃入都城寓泉涌寺之来迎院、又杖錫相陽、時了心踞亀谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時頼、聞隆之来化、延居常楽寺、軍務之暇、命駕問道、)

(道)隆こゝに任する事七年(按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禅家に改む、故に隆を開山と称する由記したれど、今此等の事寺家に伝へなし、又隆を開山と称する事は、其始当寺は全き一宇の寺院たらず、泰時が持佛堂の如くなり、故に定まりたる、常住の僧はなかりしなり、されば【東鑑】にも、粟船御堂と記して、寺号を云はず、釋書に、時頼、隆を延て、常楽寺に居らしむと書せしは、全く追記の文にて、当時寺号を唱へし証とはし難し、泰時が没後、時頼香花誦経等廃絶なからしめんが為、隆を延てこゝに居らしめしと覚ゆれば、隆をもて住僧の始めと云ふべし、さては後伝へて、開山祖と思ひまがへるも理なきにあらず、志に云所は、全く梵僊が榜文に拠て、ふと思ひ違へし訛なり、彼は福山の開山と云へるなり、榜文下に註記せり、合考して了解すべし又按ずるに、当寺撞鐘、寶治二年(1248年)の銘文に、初て寺号を見るに拠れば隆が住するに及て一宇の寺院となし、寺号を唱ふる事も、こゝに草創せしなるべし、)

建長四年(1252年)時頼建長寺を創する後隆福山に入て開山祖となる、五年六月故泰時が十三周の忌辰に値り、当寺にて追福の供養あり、又信濃僧正道禅を請て導師とす(事は【東鑑】に見えたり、泰時墳墓の條に引用す、)
後建長寺の末となり、其寺領のうちを配当あり、されど当寺は彼開祖隆が出身の地なる故建長寺根本と称せり、此頃の事が隆定規一篇を送り、凡て福山の法則に拠るべき旨を寺僧に示す(全文は寺寶の條に註記す、)近来無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり。

【寺寶】

定規二篇 共に梓に鏤ばむ
一は道隆の書たり(中略)
一は梵僊の筆なり(曰、常楽寺乃建長之根本也、開山板榜、切々訓誨、明如日月誠不可忽、今以晩来之者、似不知之、於輪番僧衆、多遊宅所、今評定宜時々検點、或住持自去、或臨時委人、若乃點而不到之者、即時出院、各宜知悉、評定衆、前堂・柏西堂・都管・信都寺・興維那・習蔵主・方首座・安首座・挂首座・用都聞・衣鉢胃清、貞和丁亥(三年、1347年)三月二日 住山梵僊、華押、按ずるに、梵僊字笠仙、自号来々禅子、元の明州の人、元德二年(1330年)二月、鎌倉に来り建長に寓す、后淨智・南禅・真如の三寺に歴住、貞和三年(1347年)建長に住して、二十九世の僧となる、后又浄智に再住し、同四月十六日寂す)(中略)

佛殿

祈祷の額を掲ぐ、本尊三尊彌陀を安ず、傍に泰時の牌(牌面に、過去観阿霊の五字見ゆ、余は磨滅して読むべからず)及其室(牌面に、没故浄覺霊位の字見ゆ、鬼簿に、浄覺禅定尼と記し、卒年を載せず、)其女の牌〔没故戒妙大姉霊位とあり〕を置
殿前に銀杏の老樹あり 圍一丈七八尺

客殿

釋迦 座像長一尺八寸、日蓮植髮の像と云ふ
地藏 中古建長寺門前の堂より移せりと云を置、圓鑑の額を扁す(佛光禅師の筆、左に縮写す)

鐘樓

寶治二年(1248年)三月の鑄鐘を懸く、序文に拠ば北條時頼祖父泰時追善の為に、左馬允藤原行家に命じ、撰せしむる所なり(中略)

文殊堂

本尊の左右に不動・昆沙門を安ず(【鎌倉志】に拠れば、始め道隆文殊の像のみ携へ来たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ。)
永禄十年(1567年)五月住持九成の時甘糟太郎左衞門(後佐渡守と称す)長俊・同正直等信施して文殊の像を修飾し、其事を木牌に記して胎中に收む 曰、文殊御彩色、御檀那被成候間奉拝事、永禄十丁卯年(1567年)五月十八日、平正直、平長俊、各華押、相模國東郡粟船山常楽寺、住持比丘九成叟、沙門僧菊拝書と記す、按ずるに、長俊は舊家小三郎の祖なり
秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり、左に縮写す

辨天社

客殿の後背に池あり 色天無熱池と呼ぶ、其中島に勧請す、是江島辨天社に安ずる十五童子の一、乙護童子を祀れりと伝ふ(其本體は建長寺に安じ、爰には其模像を置くと云)
蘭溪江島に参寵の時、感得せしものなりとぞ(建長寺西来庵永正十二年(1515年)の勧進状に、大覺禅師下向関東、江島一百日参籠、辨財天所感天童一人付與禅師也、居粟船常楽寺云々、故に江島には童子一體を缺と云伝ふ)
相殿に志水荒神(木曾冠者義高の霊を祀ると云)
姫宮明神 泰時の女を祀れりと云 稲荷・天神等を祀れり
天神社

北條武蔵守泰時墓

客殿の背後山上にあり、【東鑑】建長六年(1254年)六月北條時頼祖父泰時十三回の忌辰に値り、真言供養を修せし條に、青船御塔と見えしは是なり(中略)
按ずるに泰時は義時の長子なり、小字は金剛江間太郎或は相模太郎と称す、建曆元年(1211年)九月八日修理亮に任じ、建保四年(1216年)三月廿八日式部少丞に迂り讃岐守を兼、固辭して州任に就かず、承久元年(1219年)正月廿二日駿河守に任ず、十一月十三日武蔵守に転じ、三年(1221年)洛に上り六波羅探題北方に居る、元仁元年(1224年)六月鎌倉に帰り、廿八日、父に代りて執権の職を奉る。嘉禎二年(1236年)十二月十八日、左京権大夫を兼、曆仁元年(1238年)四月六日武蔵守を辞し、九月廿五日左京兆を辞す、仁治三年(1242年)五月十五日薙髮して観阿と号す、六月十五日卒。年六十、常楽寺と号す

姫宮塚

佛殿後の山上にあり、老松二株あり 圍一丈五尺 泰時が女の墳なりと云(元は祠堂ありしが、頽廃して、神體は今辨天社に合祀す、西来庵永正勧進状に、大覺禅師居常楽寺、平泰時息女帰依佛法、号戒妙大姉、抽戒枝結常楽果と見ゆ、北條系譜を閲するに泰時三女を生む、長は足利義氏の室、次は三浦若狭前司泰村、次は武蔵守朝直に嫁す、此三女の内なるにや、慥かなる所見なし

木曾冠者義高塚

姫宮塚の山腹にあり、小塚の上に碑を建 高三尺許 古塚は小名木曾免の田間にあり 当寺の坤方、二町余を隔
延寶八年(1680年)二月廿一日村民石井氏、塚を穿ち靑磁の瓶を得たり、瓶中に枯骨泥に交りてあり、由て爰に塚を築き収蔵せしと云 舊地にも、今尚古塚あり
按ずるに義高は 系圖義基に作る、今【東鑑】に従ふ、木曾義仲の長子なり、壽永元年(1182年)鎌倉に質たり、賴朝女を以て是に妻す、元曆元年(1184年)義仲江州にて討れし時、頼朝後患を慮り誅戮せんことを謀る、義高伺ひ知て密に遁れ四月廿六日武州入間河原にて追手の兵、堀藤次親家が郎等藤内光澄に討る(中略)光澄首を携へ帰り實検の後当村に葬りしなるべし

大應國師墓

地後山麓にあり、五輪塔を立、師は延慶二年(1310年)建長寺にて寂す、当寺は茶毘の舊跡なるが故に塔を建となり(【高僧傳】を按ずるに國師名は紹明南浦と号す、駿州の人、正元年間(1259-1260年)入唐し、文永四年(1267年)東帰す、七年、筑州興德寺に住持し、継て大宰府の常楽寺洛の萬壽寺に転住し、東山嘉元禅院の開祖となり、德治二年(1307年)、建長寺に住し、十三世の職を董し、延慶二年(1310年)十二月廿九日寂す、舍利を獲る無数、勅して圓通大應國師と諡す、弟子建長、崇福にあるもの、各舍利を奉じて塔を建建長の塔中、天源庵と云、今に支院たり、崇福の塔を瑞雲と云

 

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
常楽寺

常楽寺は、離山の東北、粟船郷にあり。粟船山と号す。
【常楽寺略傳記】に云、古老相伝、以粟船号村、依山得名、此地往昔為海濱、以載粟船繋于此、一夕變而化山、今粟船山是也、其形如船(中略)
此寺は平泰時の建立なり。泰時を常楽寺と号し。法名観阿と云ふ。位牌に、過去観阿禅門とあり。
本尊、阿彌陀三尊なり。
【東鑑】に、仁治四年(1242年)六月十五日、故武州泰時周闋の御事(一周忌)を、山内粟船御堂に於て修せらる。又建仁六年六月十五日。前武州泰時十三年忌のため、彼の墳墓青船の御塔を供養せらる。導師は大阿闍梨道禅とあり。
按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時頼、隆蘭溪が来化を聞、延て常楽寺に居しむと有。此寺元は天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禅宗になりたりと云伝ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり。

寺寶

定規 貳篇
共に板に刻してあり。一篇は蘭溪、一篇は梵遷。
鐘楼 鐘銘あり。

文殊堂

額、秋虹殿とあり、文殊・昆沙門・不動を安ず。
文殊は、首ばかり、蘭溪宋より持来り、體は本朝にて蘭溪作り続たるとなり。

 

泰時墓 山の上にあり。
姫宮 山の上にあり。相伝ふ泰時の女の墓なりと。
色天無熱池 寺の艮の隅にあり。

木曾塚

姫宮の西にあり。此塚、本は常楽寺の未申の方、十町ばかり田の中に有て、里民呼で木曾免云。相伝。木曾義仲の嫡子、清水冠者義高が塚なり。義仲は江州にて討る。義高は頼朝の婚にて、鎌倉に在しが、ひそかに遁て、武州入間河原にて、追手の堀藤次親家が郎等、藤内光澄に討る。光澄首を持て帰る。實検の後爰に葬ると也。
【東鑑】に、元曆元年(1184年)四月廿六日とあり。延寶庚申(八年、1680年)二月廿一日に、田主石井某と云者、塚を掘出して、今の所に移す。塚の内に青磁の瓶あり。内に枯骨泥に交て有しを洗ひ清て塚を建しとなり。

 

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
常楽寺

粟船山と号す。離山より北の方、粟船村有。
此寺の略伝記云。
此地往昔為海濱、以載粟船繋于此、一夕變而化山、今粟船山是也、其形如船(中略)
此寺は平泰時の建立なり。泰時を常楽寺と号し。法名観阿と云ふ。位牌あり。
本尊は彌陀の三尊なり。


【東鑑】に、泰時は仁治三年(1242年)六月十五日に卒し、粟船村へ埋葬して、常楽寺と称するは、泰時か別居の事なるへけれども、【東鑑】に、仁治三年(1242年)の條脱漏せしゆへ、却て其事しれす。
仁治二年(1241年)三月十六日、今日有評定、事終、人々退散、猶還座評定所、覧庭上落花、有一首の御獨吟云云。
 ことしけき世のならひこそものうけれ、花の散なん春もしられす
此歌を人々、前武州の時世なるへしといえるとかや。


【正統記】に、泰時心正しく政すなほにして、よく人をはくゝみ、物に驕らす、公家の御事をおもくし、本所の煩ひを止めしかは、風の前に塵なくして、天の下則しまつりき。年代を累しこと、偏に泰時か力とも申伝ふめる。陪臣として、久敷権を執ることは、和漢両朝先例なし。其主たる頼朝すら、二世をは過す。泰時徳政を先とし、法式を堅くす。おのれか分をはかるのみならす、親族幷あらゆる武士迄もいましめ、高官位を望むものなかりき云云、寛元々年(1243年)故武州禅室周闋御佛事(一周忌)、於山内粟船御堂被修之、北條左親衛幷武衛参給、遠江入道前右馬権頭・武蔵守以下、人々群参、有曼荼羅供、大阿闍梨信濃法師道禅幷讃衆十二口云云、建長六年(1254年)六月十五日、迎故前武州禅室(泰時)十三年忌景、被供養彼墳墓粟船御堂、導師信濃僧正道禅、真言供養也、請僧之内中納言律師定圓(光俊朝臣の息)・蔵人阿闍梨長信等、為此御追福行八講、自京都態所被招請也、相州時頼御聴聞云云、此前年(1253年)十一月廿九日諏訪兵衛入道蓮佛か、山ノ内に一堂建立、今日供養、是は奉為故前武州泰時追福とあれは、爰の常楽寺に一堂を経営し、兼て忌景の設に刷しものならん歟。


【元亨釋書】に云、副元帥平時頼は、隆蘭溪か、宋より来化せしを請し迎えて、先爰の常楽寺へ安居せしむとあり。或はいふ、此寺もとは天台宗なる由記したれと、真言宗なるへし。
扨(さて)蘭溪が住せしより以来、禅派になりしといふ。

此ゆへに、梵仙か榜に、開山蘭溪と云云。
方丈の額 開山蘭溪の書なり。
表門 粟船山と、黄檗木菴か書の扁額を掲く。
寺領は、建長寺内、永(壱)貫八百文鎌倉十二社村にて分附す。

寺寶

定規 二篇なり。板に彫て、一篇は蘭溪、一篇は梵仙の書なり。
洪鐘 鐘は寶治二年(1248年)のものなり

文殊堂

佛殿に向て左の方にあり。秋虹殿の額を掲く。大覺禅師の書なり。
文殊・不動・昆沙門を安す、文殊は首はかり、蘭溪か宋より将来し、躰をは本朝にて(蘭溪)みつから作りつきて、全體にせしといふ。

 

阿彌陀堂 門より正面にあり。
泰時の墳墓 阿彌陀堂の後にあり。

姫宮 泰時の墓より左の方の山にあり。寺伝に、泰時の女といふ。今は古松一株あり。土人姫松と唱ふ。当寺の過去帳に載て、法号戒妙大姉とあり。
色天無熱池 寺の艮の隅にあり。
義高石塔 寺後の山上にあり。石面に木曾冠者義高公の墓とあり。

 

木曾塚

姫宮より西にあり。此塚、もとは常楽寺より未申の方なる田の中に、十町許も隔て在しを、村民是を木曾免といひし由、是は木曾義仲の嫡子清水冠者義高の塚なり。
此人は、義仲より質として、鎌倉に来り給ひけれは、右大将家の姫君に嫁して、鎌倉に在しか、元曆元年(1184年)正月、江州にて義仲討れけれは、禍ひ義高か身に至らん事を、女の貌にやつし、同四月廿一日の旱天に、御所を忍ひ出給ふ。其日の夕刻に右大将の聞に達しけれは、堀藤太頼(親)家、武蔵国河越へ向ひけるか、同二十六日、入間河原にて、親家か郎徒藤内光澄冠者義高を誅し、首を持来て實検に備へ、後に此邊え其首を埋葬せしといふ。


もとは田●の中に古塚在しを、延寶八年(1680年)二月廿一日、田の主石井某といふもの、塚を掘出し、其中に青磁の甕有。内に枯骨泥にまひれて有けるを、悉く洗ひ浄めて、常楽寺境内に移し、塚を封して木曾塚と称しけるといふ。

 

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市) ※出典等略

山号は粟船山、臨済宗建長寺派。開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝える。
山号の粟船はアハフナ。大船の古名である。(中略)
常楽寺を開剏した際の導師は行勇であるが、行勇は延応五年(1239年)に高野山金剛三昧院から泰時に招かれて寿福寺を薫している人で、禅宗兼修の僧であることは周知の通りであるが、寛元元年六月の泰時祥忌の供養はこの堂において行われ、その仏事は曼荼羅供であった。(中略)

 

建長六年六月の十三年供養は祥忌と同じで導師は信濃僧正道禅であり、またこの時の請僧中には、わざわざこの日のために京都より招聘した中納言律師定円・備中巳請経華・蔵人阿闍梨長信らがあり、これらはいづれも密教系の人々であって、その仏事は真言供養であったというから、泰時が出世して観阿と号し、常楽寺の本尊が阿弥陀であっても、これは念仏専修の寺院が剏まったことを意味するわけではない。その仏事修法からみて密教系の寺院だったのである。

 

常楽寺はこうして剏められたが、(中略)寛元四年の末に、蘭渓道隆が来朝して寿福寺に錫を掛けていたのを時頼が延いて居らしめたという。道隆が建長寺に入るのは建長五年であるが、その月は十一月である。とすると同じ年の六月に泰時の十三年供養が行われたときの導師が道隆でなくて信濃僧正道禅であるのは何を意味するのであろうか。


虎閑師錬の『蘭渓和尚行実』は、道隆が常楽寺にいた間に、時頼が「軍務之暇、錫を命じて道を問う」たことを記しているが、これは誤りではあるまい。
また『大覚録』によれば、「常楽寺有一百来僧」の盛況であったらしい。
一方ここに現存する鐘は宝治二年(1247年)の銘があり、これには「寺号常楽」とあってこの年には常楽寺と称していたことを知ると共に、泰時の墳墓あること及びこの年には禅寺となっていたことを知ることが出来る。(中略)


現在は仏殿・山門・文殊堂がある。この文殊堂は明治初年英勝寺から移築したものであるという。『鎌倉志』の英勝寺の項には文殊堂は記されていないし、また境内図にもないが、古老は山の上からひいて来たといっているという。(中略)
文殊像は鎌倉末期のものであるという。「秋虹殿」の額は道隆の書というがこれは疑わしい。仏殿にある道隆の像は室町時代のものでかなりすぐれた作品である。

 

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(以降、蘭渓道隆を「大覺禅師」と記します。)

 

JR「大船」駅東側徒歩15分ほどのところ、駅前の雑踏を抜け山ふところにさしかかる、落ち着いた一画にあります。

 

このあたりは甘糟氏の本拠で、すぐそばにある宝永五年(1708年)に建てられた甘糟家の屋敷は、現在リニューアルされて宿泊施設「甘糟屋敷」となっています。

 

 

参道入口 / 寺号標

 

 

「大覺禅師古道場」の碑 / 参道

 

参道入口に寺号標と「大覺禅師古道場」の碑には「北條泰時公 木曽義高公墳墓」の銘も刻まれています。

名刹にふさわしく、奥行きのある参道。

 

山門前 / 山門

 

板塀付茅葺四脚門の山門は17世紀ごろ(江戸時代初期)の建立とされ、鎌倉市の指定有形文化財。
みどころの多い山門で、こちらのWeb(「鎌倉の古建築」様)で詳細に解説されています。

 

山門見上げに掲げられた山号扁額は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧・木庵性瑫(慧明国師)が元禄元年(1688年)に揮毫といいます。

 

 

山門扁額 / 山内参道-1 

 

主門は通行止めで、向かって右手の通用門から入内します。

手入れのきいた緑濃い山内。山門から正面の仏殿に向かって石畳の参道が伸びています。

 

 

山内参道-2 / 御手植え銀杏の石碑 

 

参道右手に庫裏。

参道左手には大覺禅師御手植えの銀杏の切り株と石碑。
正面が仏殿、右手に本堂、左手に文殊堂という伽藍配置です。

 

 

仏殿と文殊堂 / 仏殿

 

仏殿は元禄四年(1691年)の建立で、神奈川県指定重要文化財に指定されています。
おそらく寄棟造銅板葺で、向拝柱はありません。
向拝扉は桟唐戸、左右の身舎に花頭窓を配する禅宗様です。

 

 

仏殿堂内 / 仏殿御本尊

 

堂内は開放され、正面に御本尊の阿弥陀如来坐像、脇侍の聖観世音菩薩立像、勢至菩薩立像。向かって右手奥の御像は、室町期の作とも伝わる大覚禅師像と思われます。
堂内に掛かる額には「常楽寺は建長之根本也」の文字がみえます。
天井には狩野雪信筆の「雲龍図」が描かれていますが、うかつにも撮影しわすれました。

 

 

仏殿内の額 / 本堂

 

本堂は入母屋造銅板葺で近代建築的なイメージがあり、向拝にスクエアな向拝柱と水引虹梁を構えています。構え・規模からして客殿も兼ねているかと思われます。


『新編相模國風土記稿』には「客殿 釋迦 座像長一尺八寸、日蓮植髮の像と云ふ」とあるので、こちらの御本尊は釈迦如来(釋迦牟尼佛)かもしれません。
大棟には北条氏の三つ鱗紋がおかれ、北条氏ゆかりの寺院であることを示しています。

 

本堂の奥手には庭園と「色天無熱池」と呼ばれる池があります。
「色界」(しきかい)は三界(欲界・色界・無色界)のひとつで、欲望(食欲と淫欲)を離れた清浄な物質の世界をいいます。
「無熱池」は、ヒマラヤの北にあり、岸が四宝で飾られ、清涼な水が流れ出して人々を潤す池とされ、阿耨達龍王が棲むといいます。

炎熱の苦しみがないため「無熱池」と呼ばれます。

 

『新編相模國風土記稿』には「辨天社 客殿の後背に池あり 色天無熱池と呼ぶ、其中島に勧請す」とあり、ここに辨天様が祀られていたようです。(現況は不明)
こちらの辨天様は大覺禅師が江ノ島に参寵の時に感得されたといい、こちらの辨天社に乙護童子も祀ったといいます。

 

「かまくら子ども風土記」には、「無熱池」や辨財天社にかかる逸話が載っていますので、要約記載します。
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建長寺開創の数年前、常楽寺で仏の教えを広めていた大覺禅師のもとに、多くの僧が参禅しました。
これを聞いた江ノ島の辨天様も、教えを求めて当山へやってこられました。
辨天様は、大覺禅師の給仕役として宋からつき従ってきた乙護童子にいたずらをして、美しい侍女に変えてしまいました。

乙護童子は自分が美しい侍女に姿を変えているのを知らずに、いそいそと禅師の給仕にはげんでいました。
人々はこれをみて、「大覺禅師が美しい侍女を寵愛している」と噂しました。

自身が美しい侍女に姿を変えていること、そして人々の噂を耳にした乙護童子は、白い大蛇となって銀杏の巨木に七巻き半も巻きつき、尾で池の底を叩いて師と自分の身の潔白を示したそうです。
禅師と童子の潔白を悟った人々は、「無熱池」を「おたたきの池」とも呼んだそうです。
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相殿に志水荒神(木曾冠者義高の霊を祭祀)、姫宮明神(北条泰時の息女を祭祀)、稲荷神、天神様も祀られ、この一帯は神仏習合の様相を呈していたのかもしれません。

 

 

庭園 / 文殊堂

 

文殊堂は入母屋造藁葺の妻入りで、正面に大掛かりな千鳥破風を起こし、その下に向拝を附設しています。
全体にボリューミーで見応えのある堂宇で、明治期に扇ガ谷の英勝寺から移築ともいいます。

 

 

文殊堂の香炉 / 文殊堂向拝

 

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を置いていますが、身舎側には繋ぎ虹梁を置かず、すっきりとした印象。
正面は重厚な桟唐戸。左右の身舎には格子窓を置き、古色あふれる向拝です。

 

文殊堂には大覺禅師ゆかりの文殊菩薩坐像(鎌倉末の作とみられる)が安置されています。通常閉扉ですが、毎年1月25日の文殊祭には開扉されるようです。

 

なお、『鎌倉攬勝考』によると、こちらの文殊菩薩は大覺禅師が首のみを宋より将来し、日本で禅師みずからが彫り上げ全身像となしたと伝わります。
(『新編相模國風土記稿』には「永禄十年(1567年)五月住持九成の時甘糟太郎左衞門(後佐渡守と称す)長俊・同正直等信施して文殊の像を修飾」とあります。)

 

また、同書には文殊菩薩のほかに不動明王、毘沙門天を奉安とあります。

大覺禅師御筆の「秋虹殿」の額を掲げていたそうですが、向拝にはみえず、堂内掲出かもしれません。

 

仏殿の裏手には北条泰時、中興開基の龍淵和尚、建長寺十三世の大應國師(南浦紹明)の墓石、裏手の山腹には木曾義高の墓石、北条泰時の息女で三浦泰平の妻の宮姫の墓石などがあり、当山のみどころとなっていますが、筆者は超うかつにも見逃し(泣)、写真はありません。
こちら(「鎌倉の古建築めぐり」様)をご覧くださいませ。

 

また、当山には、北条時頼が祖父・泰時の追善供養に鋳したという「宝治二年」(1248年)と「寺号常楽」の銘がある梵鐘がありましたが、重要文化財に指定され、現在は鎌倉国宝館に収蔵されています。(建長寺、圓覚寺とならんで「鎌倉三大名鐘」という。)

 

御朱印は庫裏にて拝受しました。
御朱印尊格は文殊菩薩で、御本尊阿弥陀如来(阿弥陀三尊)の御朱印は不授与とのことでした。

 

〔 常楽寺の御朱印 〕

 

 

 

95.神奈川縣護國神社
(かながわけんごこくじんじゃ)
公式Web(神奈川縣護國神社 氏子會)

鎌倉市台4-1199-1
御祭神:祖国を守るために尊い生命を奉げられた神奈川県・相模国の英霊

 

鎌倉市台に御鎮座の神奈川県の護国神社です。
創建は平成30年(2018年)につき史料類に記載はなく、情報元は専ら公式Webおよび現地掲示(由緒書)に拠りました。

 

当社の由緒変遷は公式Webに詳しいので、概要の記載にとどめます。
詳細は公式Webをご覧ください。

 

護國神社は国家のために殉難した方々の英霊を祀る神社で、昭和14年(1939年)に従前の招魂社から改称されています。

 

先の大戦前は内務省管轄でしたが、戦後は独立の宗教法人となる例が多いです。
「府縣社以下神社ノ神職ニ關スル件」(明治27年勅令第22號)により内務大臣が指定した府県社に相当する指定護国神社と、それ以外の村社に相当する指定外護国神社に分けられます。

 

Wikipediaによると、指定護国神社ないし指定相当護国神社は、東京都と神奈川県をのぞく道府県に設置され、多くは神社本庁指定の別表神社に列して高い社格をもたれます。

 

神奈川県では、先の大戦中に現在の三ツ沢公園の地に創立許可を得て社殿造営が開始されましたが、完成間近の昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲により焼失し、創建はなりませんでした。

 

神奈川県の護國神社の役割は、昭和28年(1953年)11月竣工した神奈川県戦没者慰霊堂(横浜市港南区最戸)および、伊勢山皇大神宮・野毛山招魂社(横浜市西区宮崎町)が担ってきたとされます。

 

平成24年(2012年)、有志により「神奈川縣護國神社を再創建する會」が組織され、平成30年(2018年)5月に神奈川縣護國神社が仮宮として創建、令和2年(2020年)12月に鎌倉市台の現社地に御遷座されているようです。

 

上記のとおり、創建の経緯や今後の展望については、公式Webをご覧ください。

 

現在、神社は通常無人ですが「神奈川縣護國神社氏子會」によって管理され、御朱印も授与されています。

 

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【史料・資料】
■ 現地掲示(由緒書)

創祀:紀元2672・平成24年5月29日
創建:紀元2678・平成30年5月29日
祭神:神奈川縣英霊(かながわすべてのほつみたま)
由緒:幕末より現代に至るまで、祖国や故郷を護るために尊い命を奉げられた神奈川県(旧相模国含む)出身の英霊を祀り、感謝と顕彰の誠を奉げるべく、県民有志によって創建されました。
神奈川県は日本全国で唯一「護国神社のない県」という汚名に甘んじて来ましたが、本社の創建を先駆けとして、先人たちの愛と夢気、我が国の平和と独立を次世代に受け継いで参ります。
神奈川縣護國神社氏子会

 

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最寄は湘南モノレール「富士見町」駅で徒歩5分ほど。
車だと、「ゴールドクレストスタジアム鎌倉」よこのコインパーキングに駐車して徒歩数分です。

 

アプローチの路地が複雑なので、公式Webの案内地図を見つつの方がいいです。

(スマホのグーグルマップの経路ナビがうまく効かなかった記憶があります。)

 

地図上では複数のアプローチルートがありそうですが、実際は細い路地、というか階段1本です。

 

 

右手がおすすめのパーキング / 道路を進みます


アプローチに案内看板などないので、よけいに地図頼りとなります。

 

 

正面の坂道を登ります / 正面の細い階段を登ります

 

「大槻自動車」という整備工場の南側の路地を西側の山手に登り、すぐ右手の民家へのアプローチ的階段を登ります。
登り口に看板はなく、社殿も見えず、神社参道とは思えないロケーションなので、ここは要注意です。

 

 

この先に神社があるとは思えません / 突然あらわれる社号の横断幕

 

登り始めて民家の横を抜け右カーブを回るとすぐに「神奈川縣護國神社」の横断幕と鳥居が見えます。
いささかあっけない感じのアプローチです。

 

 

社頭 / 大船方面の眺め

 

社頭に白い金属パイプの鳥居。
直角の曲がり参道で、拝殿前に緑の金属製の鳥居とその脇に由緒書があります。

少し登っただけなのに大船方面の展望はかなりよく、明るい雰囲気の境内です。
境内には「清掃奉仕活動の案内」が掲げられ、崇敬の方々から大切にされていることがわかります。

 

 

由緒書 / 奉仕活動の案内

 

 

参道 / 社殿

 

石組みのうえに一間社流造の社殿が二殿。
トタンの屋根が掛かり、手作り感があります。
お社設置の記録記事1同2

御朱印は社殿前に置かれていたので、所定のお代をお収めして拝受しました。

 

〔 神奈川縣護國神社の御朱印 〕

 

 

 

96.西台山 英月院 光照寺
(こうしょうじ)
公式Web

鎌倉市山ノ内827
時宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:

 

ようやく鎌倉の寺院の一大集積地、山ノ内エリアに入ります。

 

光照寺は山ノ内の北側にある時宗の名刹です。
JR「北鎌倉」駅で降りた観光客の多くは東口の圓覚寺や明月院に向かい、西口で降りた客も南にくだって東慶寺や浄智寺を目指します。

 

光照寺は「北鎌倉」駅西口から北に向かうので、アプローチに観光客はまばらです。
しかしこのお寺には数多くの見どころがあり、中世鎌倉の宗派や信仰を語るとき、外すことのできない重要な寺院です。

 

鎌倉時代開創とも伝わる古刹ですが、なぜか『新編相模國風土記稿』『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』などの定番史料に見当たらず、江戸期以前の史料が少なくなっています。

 

公式Webではこの地は「一遍上人法難」の地とし、「その時(法難に遭った時)、一遍上人達が野宿した地に寺が建立され、光照寺となりました。」とあります。

 

『鎌倉市史  社寺編(鎌倉市)』には「開山一向『かまくら子ども風土記』には「この寺は、1279~1280年(弘安2~3年)ごろに一向が開いたと伝えています。一向は、時宗を開いた一遍の弟子で」とあり、現地案内板(鎌倉市)にも「開山  一向俊聖上人」と明記されています。

 

一向俊聖は鎌倉時代の僧侶で、天道念佛を修し道場を設けたといいます。
一向宗の開祖という説もありますが、一向衆や時衆は江戸時代までは宗派を形成していなかったとみるのが通説のようです。

Wikipediaには「開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も『時衆』と呼ばれた。(中略)『時宗』と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。」とあります。)

 

一向俊聖の伝記は『一向上人伝』という絵巻に伝わりますが、謎が多く、従前はその実在が疑問視されていました。

しかし近年、山形県天童市の高野坊遺跡より、応長元年(1311年)に「一向義空菩薩」二十七回忌を墨書した礫石経が出土し、一向の私称菩薩号が「義空(儀空)」という伝承と一致することから一向の実在が立証されました。

 

伝承によると、一向は筑後國の鎮西御家人・草野永泰の次男で、永泰の兄草野永平は浄土宗鎮西派の聖光上人(弁長)に帰依し、建久三年(1192年)久留米善導寺を建立した大檀越といいます。


寛元三年(1245年)、播磨国の書写山圓教寺に入寺して天台教学を修め、建長五年(1253年)に剃髪受戒して俊聖を号したといいます。

 

のちに東国に下り、鎌倉の蓮華寺(光明寺)の然阿良忠の門弟となりました。
文永十年(1273年)より各地を遊行回国し、踊り念佛(踊躍念佛)、天道念佛を修し、道場を設け、近江國番場宿の蓮華寺にて立ち往生の最期を迎えられたといいます。

 

『かまくら子ども風土記』のように、一向を一遍の弟子とする説もありますが、一向も一遍もまったく別の活動を行っていたともいいます。

しかし、一向も一遍も「別時念佛」(特定の期間や場所を決めて、集中的に念佛を称える仏教修行)を唱え実践したので、両者の思想は近いとみられています。

浄土宗Web資料

 

Wikipediaには、一向ゆかりの寺院として下記が掲載されています。

 

・番場蓮華寺(滋賀県米原市番場)
 墓所と荼毘地が遺る。旧時宗大本山、現浄土宗本山。
・天童佛向寺(山形県天童市)
 墓所があり、一向開山と伝えるが、実際には行蓮によると考えられる。
 旧時宗中本山、現浄土宗。
・宇都宮一向寺(栃木県宇都宮市)
 一向による開山。実際には行蓮によると考えられる。現時宗。
・山ノ内光照寺(神奈川県鎌倉市)
 一向が開いたという。木造立像あり。現時宗。
・照国寺(福島県南会津町)
 一向の開山。現時宗。

 

上記より、一向ゆかりの寺院は今日、時宗と浄土宗に分かれていることがわかります。

 

Wikipediaでは「蓮如は延徳2年(1490年)の『帖外御文』において『夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり』と明記し、この時点で既に一向の教団が一遍時衆と同一視されていた上に『一向宗』とよばれていたことがわかる。」とあり、一向の流派の人々(一向衆)が宗徒的な動きをしていたことがうかがわれます。

 

蓮如に代表される真宗、とくに本願寺教団は「一向宗」と呼ばれ、一向俊聖の法流の「一向衆」と混同されました。
これは江戸幕府が真宗教団を「一向宗」と称したことも大きいとされます。
真宗教団側はみずからを「一向宗」ではなく「浄土真宗」と称し、浄土宗とのあいだに「宗名論争」を巻き起こしました。

 

一方、一向法流の「一向衆」は江戸時代まで宗派を名乗らなかったとされますが、徳川幕府は本末制度の徹底を図るため、「時衆」「一向衆」に近い念佛勧進聖系教団や寺院を藤澤の清浄光寺(遊行寺)を総本山とする「時宗」として統合し、そのもとで「時宗十二派」を認めたともいいます。

 

「時宗十二派」は、Wikipediaによると以下のとおりです。

・遊行派
 一遍智真の系統で時宗の主流派。
 開祖は4世遊行上人呑海。
 本寺は清浄光寺(藤沢道場)
・当麻派
 一遍智真の系統。
 当麻道場(現・当麻山無量光寺)の住持であった真光が開祖。
 明治に遊行派に合流。
・四条派
 念仏札の賦算を他阿真教から許された浄阿真観が開祖。
 本寺は四条道場金蓮寺。
・一向派
 一向俊聖が開祖。
 本寺は番場蓮華寺。
・天童派
 一向俊聖の系統。
 本寺は佛向寺(山形県天童市)
・国阿派
 開祖は国阿(他阿智得~他阿託何の系統)。
 本寺は雙林寺
・霊山派
 開祖は国阿(他阿智得~他阿託何の系統)。
 本寺は霊山正法寺。
 雙林寺が明治初年に天台宗に復したことにより、国阿派に統一。
・奥谷派
 仙阿(一遍智真の弟子)が開祖。
 本寺は道後奥谷の宝厳寺(愛媛県松山市)
 室町時代初期に遊行派に合流。
 ※江戸時代でも「奥谷派」は存続したとする資料あり
・六条派
 聖戒(一遍智真の異母弟)が開祖。
 本寺は六条道場歓喜光寺。
・市屋派
 作阿(一遍智真の弟子)が開祖。
 本寺は市屋道場市姫金光寺。
 明治に遊行派に合流。
・御影堂派
 王阿(一遍智真の弟子)が開祖。
 本寺は京都五条にあった御影堂(新善光寺。のちに滋賀県の浄信寺)
・解意派
 解意阿(一向俊聖の弟子)が開祖。
 如體山新善光寺(茨城県)が本寺。
 明治に遊行派に合流。

 

こうしてみると、「時宗十二派」は大きく一遍智真の系統と、一向俊聖の系統から成り立っていたことがわかります。

 

明治に入り一向派内で独立転宗の機運が高まり、多くの寺院が浄土宗に帰属しましたが、これは一向俊聖と然阿良忠(浄土宗)の門弟関係を重視しての動きだったのかもしれません。

 

他の一向俊聖系統の派の多くは遊行派(時宗)に合流し、結果として一向俊聖の法流は、今日、時宗と浄土宗に分かれたかたちとなっています。

 

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光照寺は、一向俊聖よりも時宗の宗祖・一遍智真(一遍上人)とのゆかりで知られます。

 

一遍上人は延応元年(1239年)伊予國松山で豪族・河野氏の子として生まれ、十歳のときに母に死別して出家されました。
建長三年(1251年)、九州太宰府の聖達上人のもとで浄土教を修学され、文永八年(1271年)善光寺で念仏一路の決意をされたといいます。

これより衆生済度の志を立て、諸国遊行に出られました。

 

弘安五年(1282年)3月1日、一遍上人の一行(時衆)は鎌倉へ入るため小袋坂の木戸(関所)を通り抜けようとした際、執権・北条時宗配下の警護の武士に行く手を阻まれ、一遍上人は杖で二回ほど叩かれて追い返されました。

 

一遍上人は鎌倉での布教を考えていたようですが、警護の武士から「鎌倉の外は御制の限りにあらず」と諭され、その夜は鎌倉境のすぐ外側に野宿し、翌日藤澤片瀬へと移動され、そこに滞在して踊り念仏を行いました。

この夜、一遍上人一行が野宿した地に寺が建立され、光照寺になったといいます。

 

この小袋坂での一件は「一遍上人御法難」と称され『一遍聖絵』にも描かれていますが、元寇直後の騒然とした世相のなか、民衆を熱狂させる新宗教の広がりを幕府が恐れたための対応ともみられています。

 

一遍上人の生涯については遊行寺公式Web、「一遍上人御法難」については光照寺公式Webをご覧くださいませ。

 


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光照寺はまた、隠れキリシタンとのゆかりでも知られています。

 

当山の山門は明治の初めに廃寺となった德蔵山東溪院(臨濟宗)から移されたものですが、この山門には「中川くるす」紋が掲げられ「くるす門」とも呼ばれています。

 

摂津国の武士・中川清秀(1542-1583年)は池田勝正の麾下で、摂津衆として明智光秀に加勢し、荒木村重や高山右近とも連携して勢力を蓄え、茨木城4万400石を領しました。
本能寺の変後は秀吉公につき、天正十年(1582年)6月、高山右近とともに山崎の戦いで先鋒を担ったといいますが、翌年4月の賤ヶ岳の合戦で戦死しています。

 

子の秀政から秀成(1570-1612年)が家督を嗣ぎ、秀吉公の命により豊後國岡(竹田)に7万4千石で移封。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍の臼杵城主太田一吉を攻め、その功により徳川家康公から所領を安堵され、代々岡(竹田)藩主として明治維新を迎えています。

 

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キリスト教は天文十八年(1549年)、カトリック教会の司祭・フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたといいます。

ザビエルは薩摩半島の坊津に上陸し、南九州から布教を始めたため、いきおい九州はキリシタンの多いエリアとなりました。

 

この頃すでに、仏教のなかでも一神教的色彩をもつ真宗や時宗(衆)は民衆のあいだにも広まっていたので、一神教のキリスト教を受け入れる素地はあったのでは。

 

キリスト教は南蛮渡来の文物とともに、大名のあいだにも急速に広まっていきました。
豊後國岡城主の志賀親次もそのひとりです。

 

志賀親次(1566-1660年)は、戦国大名・大友氏の家臣で20歳のときにキリスト教の洗礼をうけてドン=パウロという洗礼名を得、熱烈なキリスト教信者として知られています。

 

大友宗麟はフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招き、ことに朽網地方(現・竹田市直入町と久住町の境)には多くのキリスト教関係者が行き来していたといいます。
この地の領主・朽網氏が大友氏に滅ぼされると、この地方のキリスト教信仰の中心地は岡(竹田)に移りました。

 

志賀親次はキリシタンであった大友宗麟の孫ともいわれ、上記の様な岡(竹田)の状況もあってキリスト教への信仰を深めていったとみられます。

 

親次は数々の戦いを勝ち抜いた勇将として名を馳せましたが、どういう事情か文禄三年(1594年)、播磨國三木城から移った中川秀成に居城の岡城を明け渡しています。

 

この処置は秀吉公の差配とされます。
親次失脚の原因を朝鮮出兵時の戦場無断離脱とする説もありますが、秀吉公のバテレン(伴天連)追放令は天正十五年(1587年)ですから、あるいは熱烈なキリスト教信者として知られた志賀親次を改易し、南九州でのキリスト教布教の勢いを削ごうとした意図があったのかもしれません。

 

しかし、岡(竹田)における志賀親次の影響は大きく、当地の多くの人々がキリスト教の洗礼を受けたといいます。

 

志賀親次の後を襲った中川秀成がキリシタンであったかは定かでないですが、大分県竹田市の「竹田キリシタン研究所・資料室」Webには「中川秀成の父である清秀はキリシタン大名『高山右近』とは従兄弟、キリシタンであったとも言われる茶人大名『古田織部』とは義理の兄弟であったがゆえに、キリスト教は身近なものであったことでしょう。」とあって秀成とキリシタンとのゆかりを示し、キリスト教に対する理解を示唆しています。

 

中川秀成以降の中川氏がなおキリスト教と関係をもった証として「中川くるす」紋をあげる人もいます。

 

もともと中川氏の家紋は「抱き柏」紋ですが、もうひとつの家紋として「中川くるす」紋を用いたというのです。
イエズス会の紋章はアルファベットの「IHS」ですが、「中川くるす」紋のなかに「IHS」が巧妙に隠されているとみる研究者もいるようです。

 

光照寺にもほど近い山ノ内の東慶寺が所蔵する「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」 は「南蛮漆芸」の遺品で、キリスト教のミサで用いる道具とされますが、これには明らかに「IHS」の文字が記され、「中川くるす」紋に似通った感じもあります。

 

また、竹田には洞窟礼拝堂があり、ここに宣教師が隠れ住んだという伝承があります。
そしてこれらの宣教師を匿ったのは、ヨハネ・ディダーゴの洗礼名を持つ岡藩家老・古田重治という説があり、これも岡藩とキリシタンの関係を示すとみる向きもあります。

 

天正十五年(1587年)、秀吉公のバテレン(伴天連)追放令があったものの、徳川家康公はフランシスコ会のルイス・ソテロに謁見、イギリス人でプロテスタント系ともいわれるウィリアム・アダムズを顧問とし、キリシタンのジュリア阿瀧(おたあ)を侍女とするなど、表だってはキリスト教弾圧政策はとりませんでした。

 

しかし、慶長十四年(1609年)のマードレ・デ・デウス号事件、翌年のノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件の事後処理を巡り、キリシタン大名有馬晴信と目付役でキリシタンの岡本大八が争った岡本大八事件が勃発。

 

この事件をきっかけとして幕府は慶長十七年(1612年)3月に江戸・京都・駿府などの直轄地に対しキリスト禁教令を布告、翌年2月には禁教令を全国に拡大し、家康公は「伴天連追放之文」を起草させ秀忠公の名で発布させました。

 

これより、国内のキリスト教徒の受難がはじまります。

家康公周辺では、家康公の侍女でキリシタンであったジュリア阿瀧(おたあ)は駿府から伊豆大島~新島~神津島へと流され、キリシタンの旗本・原ジョアン胤信は極刑を受けたのちに追放されています。

 

キリシタン弾圧は寛永十四年(1637年)の島原の乱を引き起こしますが、翌年鎮圧され、幕府はキリスト教禁教令を強化し、寺請制度(住民を地元の寺院の檀家とし管理する施策)も強化しました。

 

しかし島原の乱を経てもなお、国内の一部には「隠れキリシタン」が存在したといいます。

 

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「竹田キリシタン研究所・資料室」Webには、おどろくべきことに鎌倉の東溪院が登場します。
岡藩の踏み絵は、三代藩主久清公の時代に始まりました。(中略)久清公には、夏姫という娘がいましたが、彼女が病気で亡くなった時、岡城には連れて帰らず、神奈川県の鎌倉市に東渓院という位牌党を建てて、そこに娘を祠りました。鎌倉を選んだ理由は定かではありませんが、この寺は鎌倉のキリシタンが集まる寺だったと言われています。」とあります。

 

『新編相模國風土記稿』には東溪院が載っていますが、開基も開山も記していません。
開基や開山情報の収集紹介に熱心な同書としては異例ともいえるあっさとした書きぶりで、当然のことながらキリシタンとのゆかりなどは一切載っていません。
江戸期にキリスト教は禁制だったので、これはいたしかないところかと。

 

しかし、中川氏は近畿~九州を地盤とした大名なのに、どうして地縁のない鎌倉に息女の菩提寺を設けたのでしょうか。

 

この伏線として、元和9 年(1623 年)10 月の鎌倉キリシタン殉教事件をあげる説があります。


古来、思想や宗教を弾圧した権力者や政府政権与党は、その不都合な記録を抹消する例も多く、記録は弾圧された側に残っていることがあります。

鎌倉市小町の「カトリック雪の下教会」公式Webには、「鎌倉キリシタンの殉教」として以下の記載があります。

 

元和9 年8 月(1623 年)、鎌倉で5 人のキリシタンが捕縛されました。その場所は極楽寺村の海岸ではないかと思われます。その5 人とは小袋谷村(現北鎌倉と大船の間)あたりにあったキリシタン伝道所の責任者、フランシスコ会第三会の幹事役ヒラリオ孫左衛門夫妻と江戸浅草から巡回中のガルべス神父、看房ホアン長左衛門、同宿ペドロ喜三郎でした。10 月13 日(1623 年12 月4 日)ガルべス神父、ホアン、ペドロ、ヒラリオ孫左衛門は、江戸品川あたりで他46 名と共に処刑されました。その日はよく晴れた寒い日だったと記録されています。11 月3 日(1623 年12 月24 日)ヒラリオ孫左衛門の妻も、他36 名の人々と共に処刑されました。有名な島原の乱(1637 年)よりも14 年も前の出来事です。

 

「鎌倉・小袋谷に隠れキリシタンがいた」という風説は、おそらくここからきているとみられます。

 

また、出典史料は不明ですが、こちらのWeb(「鎌倉の寺社・伝説」様)には「(東渓院は)豊後岡藩三代目藩主・中川久清(1615~1681)が1679年に創建しました。(中略)中川久清がキリシタンだったかどうかはわかりませんが、東渓院を延宝7年(1679)に江戸屋敷で亡くなった娘の菩提を弔うために建てました。」とあります。

 

小袋谷村のヒラリオ孫左衛門夫妻が殉教したのは元和九年(1623年)、ここから50年ほどを経た延宝七年(1679年)、小袋谷に東溪院が創建されているのです。

 

鎌倉のキリシタン殉教の故地に、隠れキリシタンで知られる豊後・竹田の大名が娘の菩提寺を建てているのですから、おのずから想像はふくらみます。

じっさい、諸田玲子氏著の『登山大名』という中川久清を主人公とする小説があり、そこには東溪院も登場するようですが、筆者は未読につき詳細不明です。

 

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さらにこちらのWebでは、小袋谷の真宗寺院・成福寺とキリシタンの関係について示唆されています。

 

小袋谷にあった成福寺は、御北条氏の迫害を受けていったん伊豆北条の地に移り、慶長十七年(1612年)ふたたび小袋谷に戻っています。
この慶長十七年は、幕府が直轄地に対してキリスト禁教令を布告した年です。

 

伊豆・北条の北には梅縄城があり、天正十八年(1590年)の小田原攻めで後北条氏が敗れた後、家康公の家臣・石川家成に与えられ、のちに家成の養子・石川成尭(大久保忠隣の子)が城主となっている模様です。

 

こちらのWebでは、石川家成の子・康通、養子の成尭ともにフランシスコの霊名をもつとし、キリシタンであったことを示唆しています。
そして「成福寺は石川成尭や大久保忠隣の庇護を受けていたのではないか。地域のエリートであった和尚さんは領主と親しく語る機会もあっただろうと思う。だからキリシタン禁教令の影響から逃れる為に、鎌倉へ戻ったのだろうと想像してみる。」とされています。

 

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こうしてみると、光照寺と隠れキリシタンとの関係は東溪院由来とも思われますが、どうもそれだけではなさそうです。


おそらく光照寺副住職?が著されたと思われるこの記事には、「光照寺は江戸時代、鎌倉郡のいわゆる隠れキリシタンを受け入れていました。隠れキリシタンが居た事を示す証拠も残されています。」と明記されているのです。

 

また、「キリシタンである疑いが出て、町役人に連行 されそうになった時に江戸時代の光照寺の住職にこの者は光照寺の信者であるとして助けられたと言う話が残っています。」とも。

 

筆者的には本堂にあるという「十字架をかたどった燭台」が気になっていましたが、こちらの燭台はもともと光照寺のものかもしれません。

 

同記事には、「燭台も妙に平べったい皿の上にろうそくを立ててその影を見ると十字架の姿になり、燭台の装飾の数が聖書に由来するとかでキリシタンの研究家や神父様には容易く見分けられるそうです。」とあります。

 

さらに「光照寺にはこうしてキリシタンの研究家の方や、神父様がいらっしゃいます。そのような研究の中から、ルソン島で発見された江戸時代のキリシタンの文書の中から光照寺の名が出て来た事もあきらかとなりました。」とあり、江戸時代の光照寺がキリシタンとかかわりがあったことを示唆されています。

 

産経新聞にも興味深いWeb記事がありました。
「神奈川県内にも潜伏キリシタン遺物 鎌倉に脈々と、大磯には800点のコレクション」という特集記事で、光照寺の「クルス門」や「十字架をかたどった燭台」が紹介されるとともに、ご住職の「江戸時代に鶴岡八幡宮の改修のため、江戸から多くの人手が鎌倉に移住した際に、キリシタンが紛れ込み、キリシタンの里を開いたとされる。」というお話が紹介されています。

 

光照寺は『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』に記載がないですが、これは単に小袋谷周辺がカバーエリアから外れているためかもしれません。

しかし、『新編相模國風土記稿』は小袋谷村、臺村について記載し、東溪院や成福寺は収録されているものの、なぜか光照寺は収録されていません。

 

穿った見方をすると、光照寺はやはり小袋谷の隠れキリシタンの本丸で、光照寺をとり上げるとどうしてもこの点に触れざるを得ないため、あえて光照寺を外したのかもしれません。

 

いずれにしても、江戸期にはキリシタンを語ることは政治的に御法度であり、断片的な情報しか遺されていないのはいたしかたないところかと。

 

まったくの個人的な想像ですが、時宗(光照寺)や真宗(成福寺)は、どちらかというと阿弥陀・念佛信仰の一神教的な宗風で、しかも大衆に広く開かれており、キリスト教との親和性は比較的あったのかもしれません。

 

時宗(衆)の活動は、主に別時念佛と賦算と踊り念佛でした。
賦算とは「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した「念仏札」と呼ばれる札を配ることで、人々に分け隔てなく配られました。

 

光照寺公式Webには「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず」「時宗の僧は相手が他の宗教を信じていようとも全ての人は極楽浄土に生まれ変わる事が決定していると書かれた小さな紙片を差し出します。差し出してもそれは時宗に改宗しろと要求しているのではなく、私達は阿弥陀仏の誓いにより、あなたが極楽浄土に生まれかわれると言う事が既に決定している事をお知らせに来ましたと言っているに過ぎないのです。」とあります。

 

要は、「賦算」は阿弥陀如来の本願によってすでに決定している”極楽往生のお知らせ”なので、相手の思想信条や宗教を問わないのです。
つまり、自己の宗派や信条を替えることなく賦算を受けとることができるわけで、これは一神教の世界観をもつ人々には、かなりインパクトがあると思われます。

 

こうした時宗独特の教義も、キリシタンの人々には受け入れやすかったのかもしれません。

 

「寺社の町」といっても過言ではない鎌倉ですが、じつは鎌倉はキリスト教の教会が多いことでも知られています。
材木座の五所神社境内に「隠れキリシタンの像」と伝わる「お春像」が祀られているなど、ふかく掘り下げていくと案外に隠れキリシタンの遺蹟が残っているのかもしれません。

 

このほか光照寺には咳の神様(おしゃぶき様)や子育地蔵尊が御座し、庶民の信仰を集めてきたといいます。

めずらしい安山岩の板碑は、市重要文化財に指定されています。

 

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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)

(臺村)東溪院

德蔵山と号す、臨濟宗 足柄下郡湯元村早雲寺末 彌陀を本尊とす、
観音堂 正観音を安ず、村持下同
菴 龜井堂と呼ぶ、彌陀を置
地藏堂
塚三 熊野塚 東北陸田間にあり上に松樹生ず 富士山 西北山上にあり 平塚 村西にあり、何れも小塚なりと唱ふ

 

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)

西台山英月院光照寺と号する。時宗、藤沢清浄光寺末。
開山一向。
本尊、阿弥陀如来。
境内地九畝二十一歩。
本堂・庫裏・日限地蔵堂・山門あり。
山門は台の徳蔵院東渓院(臨済宗)の山門を移し建てたといい、東渓院の本尊という釈迦如来坐像もここにある。

 

■ 現地案内板(鎌倉市)

宗派 時宗遊行寺派
山号寺号 西台山英月院光照寺
開山 一向俊聖上人
時宗の開祖一遍上人が、念仏布教のために鎌倉に入ろうとたのを執権北条時宗の警護の武士に阻まれ、野宿した地に建立されたといわれるお寺です。
山門の欄間には、キリスト教の十字を意味する「クルス紋」が掲げられ、隠れキリシタンを受け入れていた伝承も残されています。
本堂の周辺には、たしさんのシャクナゲが植えられ、別名「しゃくなげ寺」と呼ばれています。
ほかにも、ハギ、ユキヤナギ、レンギョウなど、四季折々の花を楽しめます。

 

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JR横須賀線「北鎌倉」駅西口から徒歩5分ほどの閑静な住宅地にあります。
鎌倉観光のメイン動線から外れており、観光客はまばらです。

 

 

参道入口 / 寺号標 

 

  

山門 / 「中川くるす」紋

 

路地から階段参道が伸び、階段右脇に寺号標。
正面の山門が有名な「くるす門」で、切妻屋根桟瓦葺の均整のとれた四脚門です。
中備蟇股のうえに「中川くるす」紋が掲げられ、「くるす門」の石碑も置かれています。
なお、この紋はレプリカで、本物は本堂内にあるという情報があります。

 

 

斜めからの山門 / 「くるす門」の石碑

 

たしか山門そばに「こそだて地蔵尊」、参道左手に咳止めの神様「おしゃぶき」様が御座されています。
時宗寺院らしく、「南無阿弥陀佛」の六字御名号の石碑もありました。
「遊行観音」という、端正な聖観世音菩薩立像も御座します。

 

 

こそだて地蔵尊 / 「おしゃぶき」様

 

 

御名号碑とこそだて地蔵尊 / 御名号碑

 

 

遊行観音 / 参道-1

 

参道の石畳の意匠が美しく、木々もよく手入れされ心なごむ山内です。

 

 

参道-2 / 本堂

 

参道を進んだ左手奥が本堂、右手が庫裏です。

 

本堂は入母屋造銅板葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、向拝柱に寺号板、正面桟唐戸のうえに院号扁額を掲げています。

堂前の天水鉢には時宗の宗紋「隅切三(すみきりさん)」が刻まれています。

 

 

向拝/ 寺号板

 

 

本堂扁額 / 天水鉢

 

御本尊は阿弥陀如来、聖観世音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊。
東溪院の御本尊という釈迦如来坐像も本堂内に御座でしょうか。

 

 

横からの本堂向拝と庫裏 / 「一向堂」の扁額

 

一向上人の御像を蔵すとする資料もありますが、御座所はよくわかりません。
庫裏?に掲げられた「一向堂」の扁額は、開山・一向俊聖とのゆかりを示すものでしょうか。

 

御朱印は庫裏にて拝受しました。
御朱印尊格は当山由緒を物語る「遍上人法難霊場」で、「中川くるす」紋も捺されています。

 

 

〔 光照寺の御朱印 〕

 

 

 

 

→ ■ 鎌倉市の御朱印-30 (E.亀ヶ坂・化粧坂口-2)へつづく。

 

 

 

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